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辻邦夫 『真昼の海への旅』 小学館P+Dブックス

 辻邦夫らしい哲学小説。ずいぶん昔に読んだのですっかり忘れてしまったが、『背教者ユリアヌス』に、読み終わった後の気分だけが似ているような気がする。

 小説のあらすじ自体は、ヨーロッパ人を主体とした8人のクルーと4人の下働き少年が中型帆船に乗って日本経由、太平洋周りでオーストラリア近傍に至り、そこで進路を東に変えて南アメリカ南端のホーン岬を左に曲がり、世界を一周するというもの。この航路だと南半球の太平洋で必ず台風発生地帯を通過しなければならないが、小説後半で案の定、その巨大な台風に遭遇し、船長はじめ全員の巧みな操船で沈没は免れるが、船はズタズタにされ、航行不能の一歩手前までに傷つけられてしまう。

 しかし500頁を超えるの小説の眼目は、この航海の苦労話ではなく、出港以前に8人のうちの誰かが起こしたとされる殺人事件の疑惑と、それに深くかかわる彼らのあいだの恋愛関係の複雑な謎ときにある。そしてその謎の解明に至る論理は、一般の殺人事件を解き明かす探偵小説ふうの論理明晰なそれではなく、クルー全員の上に薄いグレーの雲のようにかぶさっている、人類が「業(カルマ)」として持っている「なにか」を闡明しなければ、だれも答えにたどり着けないという厄介なものだった。辻邦夫が好きな人でなければ、たいていここで挫折してしまう。  

 P226

 (カルマと長い付き合いがある)インドから乗船している老人の祖先たちは、高山の菩提樹の下で、あるいはガンジスの流れのほとりに座って、人間の運命の果てしない変転を空想していったに違いないのです。一人の人間の生涯でさえ多様な変化に彩られているのに、その人間の生涯が終わると、今度は牛になり、鳥になり、花となり、岩石となり、虫となり、幾千年も、幾万年も、いや、それのさらに幾万倍もの年月を、こうした奇怪で鮮明な映像で満たしていったに違いありません。

 おそらくそうした無限の変化、無数の組み合わせの果てにーーー億に億を掛け、それをさらに数億倍した歳月の果てにーーー気の遠くなるような宇宙の果てまでの旅を幾億回も繰り返したあげくにーーーこうした大宇宙の変転の組み合わせが、ふと、現在の相とまったく同一になる瞬間が来るという、あの氷のような闇の世界に屹立する永劫回帰の戦慄的な時間感覚は、ほかならぬこの小さなインド老人の快活な、子供じみた、黒い眼によって眺められたものであったのかもしれない。

有吉佐和子『複合汚染』 新潮文庫

 1975年ごろに書かれたようだが、ずいぶん話題になった本だった。当時は水俣病や富山のイタイイタイ病四日市の大気汚染を訴えた公害訴訟など、日本全国が公害問題で揺れていた。『複合汚染』という言葉がまだ目新しかったから、ベストセラーにもなったのではなかったか。 

 しかし読んでみて、小説としての体を全くなしていないことに、本当に驚いた。文庫本で76ページ迄は著者が市川房江の参議院選挙の応援に駆り出され、慣れない仕事に体がクタクタになる話ばかりが続いて、読者は「いつになったら複合汚染のはなしになるの?とうんざりさせられる。で、76ページで作者は関西の仕事場にやってきて、疲れた体でご飯を炊こうと、半年もほったらかしていたコメ袋を開ける。開ける前に、彼女も一応女性だから、米袋の中はコクゾー虫だらけだろうと心配になるのだが、なんと虫は1匹もいなかった。「どうして封を開けて半年にもなる米に虫がわかないのだろう」と、彼女は変な感じに襲われる。「この米には虫を防ぐ何かが入っているのだろうか」と。

 小説『複合汚染』は実はここから始まる。ここから後は、アメリカの有名な小説家レイチェル・カーソンの「沈黙の春」の日本版のような話が400ページ以上にわたって延々と続く。じつにさまざまな有害物質に私たちは取り巻かれている、小魚には有機水銀が取り込まれており、食物連鎖でその有機水銀は小魚を食べる上位の魚にすぐに入り込む、稲の除草剤にはBHCDDTが含まれており、コクゾームシはつかなくなるが人間の消化器官がやられるかもしれない、柔らかくておいしい牛や鶏の餌には女性ホルモンが混入されている、妊婦がそうした肉を食べれば、胎児が男だった場合、どういう影響が出るのか、誰も知らない‥‥‥、といった話である。 

 しかも、作者は化学物質とかの知識にまるで乏しい。だから稚拙な説明をだらだらと聞かせられることが多い。いい加減にアタマにきて、半分の250頁で放り出してしまった。市川房江の選挙応援の話は最後まで一言も出なかった。小説の約束事として、こんな作法はないだろう。

 

梅棹忠夫 女と文明ー妻不要論

 本書のある章を読んでいて一つ気になった論議があった。妻というものはやがて不要になるという激しい内容である。

 p89-90

 一般的な男の立場から言えば、今まで妻というものは家事労働全般の担当者として、その必要不可欠性が認められてきた。しかし今は高機能の掃除機、洗濯機、冷蔵庫、電子オーブンレンジなどの家電製品と、衣料と室内のクリーニング屋、料理配達屋などの専門業者が、妻が独占してきた家事労働の多くの部分に進出して来ている。つまり妻というものの存在意義を危うくしている。そして未婚の男はかなりの割合でこのことに気づき始めている。

 その結果、35~40歳を超え、かなりの収入もあるのに、いっこう結婚しようともしない男が増えている。現実の問題として、毎月5~10万円の費用契約で洗濯、室内清掃、夕食の配達などをやってくれ、平均以上の文化生活が可能になっているらしい。

 つまり単身男の収入が平均より少し良ければ、妻は不必要になるのだ。これくらいの費用負担で、毎日愚痴を聞かされ、実家の内情、近所のうわさあれこれにつき合わされる面倒が、一切なくなるのだ。男女の間に特別な恋愛関係がないかぎり、若い男の結婚率は確実に下がっていくだろう。そして日本の人口減少に歯止めがかかることはないだろう。

井上ひさし 『吉里吉里人』 新潮社

 850ページ、2500枚の大作。初読は刊行当時の1982年だからほぼ40年ぶり。

 名作、それもシェイクスピアに匹敵すると思われる大名作。シェイクスピアには格調高い大演説と、駄洒落ダラダラ混じりの長広舌が一つの作品の中でいくつも混在するが、『吉里吉里人』でもこの点はまったく同じ。過剰ともいえるほどの豊富な語彙を駆使しながら、読者を爆笑させる冗談話を続けるかと思うと、次の段落では「山上の垂訓」を連想させる高度な国家論、医学論、農業論、言語論を展開させる……。

 漱石の『猫』と競い並ぶ日本近代文学史上の最高峰の一つだろう。長いので読破には時間がかかるのも共通ではある。

梅棹忠夫 『文明の生態史観』 中公文庫

p101・201-2 

 東洋とか西洋とかいう言葉は、漠然たる位置とか内容をあらわすには大変便利な言葉だが、少し精密な議論を立てようとすると、もう役に立たない。

 わたしは大きな地域の文化の成り立ちを考えるとき、その文化の先祖はどこかという「系譜論」の立場はとらずに、いまの共同体の生活様式をデザインしたのは誰か、自分たちのオリジナルなのか、あるいは誰かからの借りものなのかということを問題にする「機能論」の立場をとる。

 すると、アジア、ヨーロッパ、北アフリカを含む全旧世界は、二つのカテゴリーに分けられることが見いだせる。

 一つは、西ヨーロッパおよび日本を含むところの、第一地域である。もう一つはこの西ヨーロッパと日本に挟まれたユーラシア全大陸のすべてで、これを第二地域とする。

 第一地域は、歴史の型からいえば、塞外野蛮の民としてスタートし、第二地域からの古代文明を導入して、そこから独自に、封建制、絶対主義、ブルジョア革命を行い、現代は資本主義による高度の近代文明を持つ地域である。 

 第二地域は、もともと古代文明はすべてこの地域に発生しながら、封建制を発展させることなく、後に巨大な専制帝国をつくり、その矛盾に悩み、多くは第一地域諸国の植民地ないしは半植民地となり、最近にいたってようやく、数段階の革命をへながら、新しい近代化の道をたどろうとしている地域である。 

 具体的に第二地域の名前をあげるなら、(1)中国世界、(2)インド世界、(3)ロシア世界、(4)地中海・イスラム世界、となるだろう。現在では、帝国はすべてつぶれたが、巨大な地域共同体としての一体性は消え去ってはいない。

司馬遼太郎 『アメリカ素描』 新潮文庫

 巨大文明アメリカの中での様々な文化的側面‥‥WASP、犯罪の日常性、排日問題、ゲイ、多民族、清教徒感覚、弁護士社会、ウォール街・資本の論理‥‥が、あまり重苦しくなく語られる。

 巻の終章に近いところで触れられる「アメリカ的善意」がフレッシュだった。アメリカ農務省が世界中の植物の種を貯蔵しているという話だった。ある国がその国独特の野菜や穀物の栽培をやめてしまっていても、国の事情が変わってもう一度栽培しようと思えば、アメリカのメリーランドやコロラドの採種圃場に行けばタダでくれることを検討するのだという。

 この一点だけでも、アメリカという文明の基礎が、人間に安く豊かに食物を与えることにあるということが分かる。ただ、この裏面には、全世界の農業産業にとって死活的な支配力をアメリカ農業産業に与えようという、恐るべき戦略性が潜んでいることも忘れるべきではない。

司馬遼太郎 『風塵抄』 中公文庫

 1986年から89年まで毎月1回、第一月曜に産経新聞に連載した短いエッセイ集。一回ごとの文章は短くても、連載が長期にわたるので、全部をまとめて一冊にして読むと、司馬の全身像がよく見えてくる。

 数例をあげる。

 ダーウィン自然淘汰論を言ったが、京都鴨川には体力の違うヒラタカゲロウが4種も流速の違う所に棲み分けているという「今西錦司理論」との関係はどうなっている(p131)。

 日本にはなぜ人名が多いのか。日本はもともと姓の種類が多いのに加えて、男の名の場合、ふつう漢字二個を自由に組み合わせれば作れるため、ほとんど無制限かつ野放図に製造できる。これに対しヨーロッパでは姓の種類がじつに多い代わりに、名の種類がうんと少ない。それは、たいてい聖書に出てくる名か聖人の名をつけるから(139)。

 中国では、共産党人民解放軍を問わず、自分の管轄下にある人々を”私のもの”としてみる感覚がつよい。過去ではそれでもよかったのだが、現代では”公”という最高の価値基準が中国でも普遍化していて、そのように、人類規模でも”公”を掲げるひとびとが天安門広場に集まったのである。習近平が最も気にしているのはこの状況である(p201)。

 オランダでは土地のほとんどは国有である。だからそれを国から借りれば、そこで遊牧までできる(p225)。

 超巨大な版図を持つ旧ソ連や現代の中国では、軍隊と対内諜報機関による独裁でしか国家を維持できなくなっている(p316)。等々‥‥、文章が例によって平易なのがとても助かる。