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日高敏隆 『生き物の世界への疑問』(朝日文庫)

 

 最終章に近いところで、これまでさんざん侮られてきたラマルクの獲得形質遺伝説と、今や完全に進化論の定説になった突然変異・自然淘汰説は、実は言われているほど違わないのではないかという興味深い考え方が示されている。

 p315-6

 生物の持つ遺伝的な性質の情報はすべて遺伝子に担われているという現代の認識に立てば、獲得形質の遺伝ということはあり得ないように思われる。
 しかしぼくには、獲得形質がほんとうに遺伝するかどうか、遺伝しうるかどうかということより、もっと重大な問題があるように思われる。それは、突然変異・自然淘汰のネオダーウィニズム派のから絶えず“異端”視されてきたこの獲得形質の遺伝という考え方は、本当に突然変異・自然淘汰という考え方と対立したものなのだろうかということである。

 よく考えてみると、この二つの考え方には共通したところがある。それはどちらも、今存在する種に少しずつ変化が付け加わって別の種ができる、というプラスアルファの思想に立っているという点である。違うのはそのアルファが、ラマルキストが生活と環境の中で獲得されるというのにたいして、ネオダーウィニズム派は生活とも環境とも関係なく偶然に生じる突然変異によるとしている点だけだ。

 2015年5月7日の本ブログで書いたことだが、現在「遺伝子によらない遺伝の仕組みを探求する学問」であるエピジェネティクスの研究ががん細胞の増殖やその周辺の幅広い分野で進められている。

 遺伝子の実体はDNAである。この二重らせんは細胞内でむき出しになっているわけではなく、そのまわりに実に多様な有機分子の集合体が付着している。そしてこれらの多様な有機分子は長期間、ときには生涯を通じてずっと遺伝子に付着し続ける。この圧倒的に多種多様な有機分子の作用が遺伝子の発現に影響しないわけがない。
 これまで遺伝子には、遺伝にまつわる情報がすべて書き込まれているとされてきた。それを解読すれば自分がどんな可能性を持っていてどんな人生を送るのか、すべて明らかになるはずだった。それだからこそヒトゲノムプロジェクトは、いかにもアメリカ的に前向きに、十三年の時間と三十億ドルの費用を投じて、人間の全ゲノムを解読した。にもかかわらず、完全なクローンである一卵性双生児が微妙に顔が異なり、考え方はかなり異なり、行動にいたっては全く異なることがあるのはなぜなのか・・・・この簡単な疑問ひとつに答えはまったく出せていない。これからも出そうにない。
 「遺伝」は遺伝子という監督によって指揮される現象ではない。その逆に、環境に影響された細胞中の生化学物質こそ遺伝子の発現をコントロールしているのであり、遺伝子は「遺伝」という舞台においては「大部屋俳優のひとり」にすぎないとされている。

 このエピジェネティクスの考え方が基本的に正しいとすれば、ラマルキストの言う「生活の中で獲得した形質」中にできた細胞中の生化学物質が、ネオダーウィニストの言う遺伝子の発現をコントロールし、親にはなかった形質が子孫にプラスアルファされることは十分に考えられるのではないか。父親と母親がオリンピックのメダリストであり、有名なトレーニングを長年続けた人ならば、彼らの細胞中には筋肉細胞の遺伝子に強力に関与する生化学物質が蓄積され続ける。そしてそれは彼らの子どもの細胞内に受け継がれるだろう。ネオダーウィニストはこのエピジェネティクスと遺伝子本体の関係をどのように見ているのだろうか。

ユヴァル・ノア・ハラリ 『21 Lessons』(河出書房新社)4/4

ベーシックインカム社会にむけて、若い人全員にのしかかるプレッシャ―

 p340-1

 マルクスが1948年に出した『共産党宣言』には「確固たるものもすべて、どこへとも消えてなくなる」と宣言している。もっともマルクスエンゲルスは、主に社会構造と経済構造について考えていたのであって、我々の身体や認識の構造については何も考えていなかった。我々は今、2048年までには個人の身体生理のしくみや認知構造までもがどこへとも消えるか、データビットの雲の中に紛れてしまうだろうことを知っている。

 1848年には、何百万人もの人が村の農場での仕事を失い、工場で働くために大都市へ出ていった、だが大都市に着いても、ジェンダーを変えたり第六感を追加したりすることはなかった。そして、もし紡績工場で仕事が見つかれば、職業人生の最後までその仕事に従事することが見込めた。

 2048年までには、人びとはサイバースペースへの移住や、ジェンダーアイデンティティ、インプランテッド・コンピュータによって生み出される新しい感覚的経験に対処しなければならなくなっているかもしれない。もし3Dのバーチャルリアリティ・ゲームのために最新のファッションをデザインする仕事が見つかって、それに意義を見出したとしても、10年以内にその仕事だけでなく、それと同じ芸術的創造の水準を必要とする仕事はすべて、AIにとってかわられかねない。

  だからあなたは25歳の時に出会い系サイトで「ロンドンに住み、ファッションショップではたらく25歳の異性愛の女性」と自己紹介したとしても、35歳の時には「年齢調整をしているジェンダー不特定の人間で、大脳新皮質の活動は主にニューコスモスのバーチャルワールドでやってもらっている」と言わなければならないかもしれない。45歳の時には、デートしたり自己を規定するのはすっかり時代遅れになっているだろう。コンピュータアルゴリズムに自分に最適の相手をもらう(あるいは作り出してもらう)のを待つだけの身になっているだろう。

 ファッションデザインの技法から人生の意味を引き出す点に関して言えば、あなたはファッション分野でアルゴリズムに挽回不可能な大差をつけられてしまい、過去10年間の自分の代表作を見ると、誇らしさよりも恥ずかしさでいっぱいになる。そして45歳のこの時点で、あなたの前方には根本的に大変化を遂げなければならない年月が、うんざりするほどまだ何十年も残っているのだ。

 ベーシックインカム制度の社会が到来する必然性は、こんなに簡単な未来素描をするだけでもすでに明らかである。ただし、どのような層が展望ある高度専門職と高所得を手にし、どのような層が生活保護に毛の生えた程度のベーシックインカムに頼る生活をするようになるのか。前者の人々はその予備軍も含めてある程度の予感を得ているが、無用者階級と著者に呼ばれる後者の人々はただ嫌な予感におびえているだけである。いやその予感すらない人が大半である。

 

ユヴァル・ノア・ハラリ 『21 Lessons』(河出書房新社)3/4

 p302-13

 ホモ・サピエンス「事実」だけでは満足しないポスト・トゥルースの種である。ホモ・サピエンスの力は事実を超える虚構を作り出し、それを信じることにかかっている。自己強化型の神話は石器時代以来ずっと、人間の共同体を団結させるのに役立ってきた。

 私たちは非常に多くの見ず知らずの同類と協力できる唯一の哺乳類であるが、それは人間だけが虚構の物語を創作して広め、膨大な数の他者を説得して信じ込ませることができるからだ。

 だから、ぞっとするようなポスト・トゥルースの時代をもたらしたとして、フェイスブックやトランプやプーチンを責めるなら、何世紀も前に何百万ものキリスト教徒が神話のバブルの中に閉じこもり、聖書の記述が真実かどうかを決して問おうとはしなかったことや、何百万ものイスラム教徒がコーランを疑うことなく信じ込んでいたことを思い出してほしい。

 ・・・私が宗教をフェイクニュースと同一したために多くに人が腹を立てることは承知しているが、これがまさに肝心の点だ。でっち上げの話を1000人が1か月信じたら」、それはフェイクニュースだ。だが、その話を10億人が信じたらそれは宗教で、フェイクニュースと呼んではならないと諭される。

 ・・・良くも悪くも虚構は人間の持つ道具一式の中でとりわけ効果的だ。宗教の教義は人間を鼓舞して、軍隊を組織したり刑務所を設置したりさせるだけでなく、病院や学校や橋も建設させる。アダムとイブは決して存在しなかったが、それでもアダムとイブの虚構の上に作られたシャルトル大聖堂は美しい

 ・・・協力を強固なものにするために虚構を使ったのは古代の宗教だけではない。時代が下ってからは、各国が独自の国家の神話を作り出す一方で、共産主義ファシズム自由主義の運動は手の込んだ自己強化型の信条を作り上げた。ナチスプロパガンダの巨匠ゲッペルスは「一度だけ語られた嘘は嘘のままであり続けるが、1000回語られら嘘は新事実になる、との名言を残した。

 ・・・宗教や政治イデオロギーに加えて、営利企業も虚構フェイクニュースに頼っている。ブランド戦略は、人々が真実だと思い込むまで、同じ虚構の物語を何度となく語るという手法をとることが多い。コカ・コーラをたくさん飲むことは肥満と糖尿病を招きやすいが、それでもコカ・コーラ本社が長年にわたって提供し続けてきた「若くて健康なスポーツ好きの人々とともにあるコカ・コーラ」のイメージ戦略は、人々の潜在意識の中でスポーツとコカ・コーラの結び付きを信じさせ続けている。

 ・・・人間には、知っていると同時に知らないでいるという、驚くべき才能がある。同時に、人間という種は、真実よりも力を好む。私たちはこの世界を理解しようとすることよりも支配しようとすることに、はるかに多くの時間と努力を投入する。
 たとえ、世界を理解しようとするときにさえ、たいていは「世界が支配しやすくなることを願って」そうする。したがって、真実が君臨し、神話が無視される社会をあなたが夢見ているになら、ホモ・サピエンスには全く期待が持てない。あなたが無意識の中で思っていることと、意識の中で思っていることが全く相反しているからだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ 『21 Lessons]』(河出書房新社)2/4

 AIや生物工学は数十年以内に巨大な「無用者階級」を生み出す。
 ベーシックインカムなどの社会実験を本格化しなければならない。

  p38

 AIが社会に対してこれから何をするかを考えるには、まず雇用市場に目を向けるのが最善かもしれない。世界の研究者たちとAIやビッグデータアルゴリズムや生物工学について話を続け、見えない展望にみんながいらいらし始めたときには、魔法の言葉をたった一つ口にするだけで、たちまち彼らの注意を引き戻すことができる。それが「雇用」だ。

 テクノロジー革命は」まもなく、何十億人もの人を雇用市場から排除して巨大な「無用者階級」を新たに生み出し、既存のイデオロギーのどれ一つとして対処法を知らないような社会的・政治的大変動を招くかもしれない。テクノロジーイデオロギーについての話はやたら抽象的で自分たちには縁がないと思っている人も、大量失業、あるいは自分の失業の見通しが強い現実性を帯びてくれば、だれひとり無関心ではいられない。

 p40-2

 AI革命とは、コンピュータが早く賢くなるだけの現象ではない。このことに気づくのが極めて重要だ。この革命にはバイオテクノロジーの飛躍的発展が大いにかかわっている。人間の情動や欲望や選択を支える生化学的なメカニズムの理解が深まるほど、コンピュータは人間の行動を分析したり、人間の意思決定を予測したりすることに上達し、車の運転者や銀行家や弁護士にとって代わったりするのがうまくなる。

 過去数十年の間に、神経科学や行動経済学のような領域での研究のおかげで、科学者は人間のハッキングがはかどり、とくに、人間がどのように意思決定を行うかが、はるかによく理解できるようになった。食物から配偶者まで、私たちの選択はすべて、謎めいた自由意志ではなく、一瞬のうちに確率を計算する何十億個のニューロンによってなされることが判明した。自慢の「人間の直感」も、実際には「パターン認識」に過ぎなかったのだ。優れた運転者や銀行家や弁護士は、交通や投資や交渉についての魔法のような直感を持っているわけではなく、不注意な歩行者や支払い能力のない借り手や不正直な悪人を見抜いて避けているだけだ。

 また、私たちの脳の生化学的なアルゴリズムは、コンピュータに比べてレベルが非常に低いことも判明している。脳のアルゴリズムは都会のジャングルではなくアフリカのサバンナに適応した時代遅れの回路に頼っている。優れた運転者や銀行家や弁護士がときどき愚かな間違いを犯すのも無理はない。

 これは、直感を必要とする課題においてさえAIが人間をしのぎうることを意味している。とくに、AIは「他者」についての直感を求められる仕事では、人間を凌駕する。歩行者がいっぱいの道路で乗り物を運転したり、見知らぬ人にお金を貸したりビジネスの交渉をしたりといった多くの仕事の場面で、情報テクノロジーとバイオテクノロジーを融合させたAIのアルゴリズムは、ホモサピエンスのアフリカ育ちの直感アルゴリズムのはるか上をいく。

 このようにAIは、人間をハッキングすることで、これまでは人間ならではの技能だったものでも、人間をしのごうとしている。機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)スキャナーと情報テクノロジー(IT)の連合が、運転者や医師や弁護士の雇用問題と関連するようになるまでは長く曲がりくねった道が続いているが、それも数十年以内にはまっすぐの道筋に変えられるだろう。2050年にはコンピュータが人間の精神科医やボディーガードを務めているかもしれない。すなわちこの分野でも大量の無用者階級が生まれるということだ。

  つい数年前すべての住民に生まれつき一定の所得を保守するベーシックインカム構想がメディア上で話題になったが、これは大量の無用者階級がやがて生み出されてくることに対する社会実験である。フィンランドとかどこか北欧の国での試みだったと記憶しているが、住民投票であっさり否決された。数十年後、街に無用者階級があふれ始めたとき、今度はそんな呑気な否決はできないだろう。どのような層が仕事に見合った高所得を手にし、どのような層がベーシックインカムですべての生活費を賄うようになるのだろうか。

ユヴァル・ノア・ハラリ 『21 Lessons』(河出書房新社)1/4

  著者は『サピエンス全史』、『ホモデウス』と大著2作にわたって、人類の知性はどこまでEvolution=展開を続けるのかを、その「展開」が必ずしも「成長」や「進化」を意味するものではないことに十二分に注意を払いながら、問い続けてきた。Evolutionをわたしは「展開」と記したが一般的には右肩上がりの「上昇」を含意する「進化」と訳す人が多い。『21Lessons』はその3作目だが、第1章<テクノロジー面の難題>では、前著『ホモデウス』を引き継いで、現在のコンピュータ・テクノロジーの急加速が私たちの未来を少しも明るくするものではないことを、強い調子で警告している。

 

 p21-3

 政治家も有権者も、新しいテクノロジーをほとんど理解できていないし、そうしたテクノロジーが持つ危険な可能性を統制することなど、彼らには望むべくもない。1990年代以降、インターネットは世界を変えてきたが、インターネット革命を主導したのは政党よりも、政治のことを何も知らない電子技術者だ。
 あなたはインターネットに関して、一度でも投票したことがあるだろうか。今の民主主義制度は何が自分たちに降りかかってきているのか、いまなお理解するのに苦労している人が大多数である。AIが台頭した時の強烈なショックは今なお沈静化できておらず、それが今後私たちの日々の暮らしにどんな影響をもたらすのか、備えは皆無に近い。

 すでに今日金融制度はコンピュータのせいであまりにも複雑化しており、この制度の細部を理解できる人はほとんどいない。AIは日進月歩なので、もはや人間はだれ一人、金融を理解できなくなる日が訪れかねない。その時。政治のプロセスはどうなるのか。

 あなたは理解できるだろうか―—予算案や新しい税制改革案をコンピュータのアルゴリズムが承認してくれるのを恐る恐る待つ政府を?例えばドルに課税するのは不可能あるいは的外れになりうる。なぜなら大方の取引は情報の交換のみから成り立ち、いかなる通貨の明確な移動も伴わなくなるからだ。政府は税金をドルではなく情報で支払う「情報税」を創設しなければならないだろうが、政治制度は莫大な情報税創設準備の資金が尽きる前に、なんとかその危機に対応できるだろうか。

 今の政治家がAI革命の実体をほとんど把握できていないことはコインの表側である、そしてその裏側にはAI化をすすめる技術者と起業家と科学者が、自分たちの決定がもつ政治的意味合いをほとんど理解していない、という恐るべき皮肉がある。彼らは、おそらく大多数は善人なのだろうが、政治的にはだれの代表でもないのだ。政党関係者とAI技術関係者はお互いのテクニカルタームが理解できないので、今後の見通しに関する会議体さえ持つことができず、国民の多数の理解できるような議事録さえ発表できない。

 

村上春樹 『インタビュー集 夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文春文庫)2/2

 <2005年>『夢の中から責任は始まる』

 p361-2

 文春編集部 地下鉄サリン事件の被害者を丁寧にインタビューしてそれをもとにまとめられた『アンダーグラウンド』で村上さんはこう書かれています。「私たちが今必要としているのは、おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られる全く新しい物語(物語を浄化するための別の物語)なのだ、と。それはどういう意味だったのでしょう?

 村上  その文章の中で僕が言いたかったのは、地下鉄サリン事件とは、彼らのナラティブ(物語)と我々のナラティブの戦いであったのだということです。彼らのナラティブはカルト・ナラティブです。それは強固に設立されたナラティブであり、局地的には強い説得性を持っています。それゆえに多くの知的な若者たちがそのカルトに引き寄せられました。彼らは美しい精神の王国の存在を信じました。そして彼らは我々の暮らす、矛盾に満ちて便宜的な社会を攻撃しました。彼らの目からすれば、それは堕落したシステムであり、破壊すべきものだった。だから彼らは地下鉄を攻撃しました。騒擾を引き起こすために。彼らは自分たちに与えられたそのナラティブを強く信じていたからです。
 たしかに我々自身、この便宜的で堕落した社会に暮らしている我々自身、ここにあるナラティブは間違っているのではないかと考えることもあります。でも我々には他に選びようもないのです。デモクラシーやら結婚制度やらにうんざりすることがあったとしても、なんとも仕方ありません。それらはぜんぜん完璧ではなく、多くの矛盾に満ちているけれど。それらはとにかく歳月をかけて、それなにとテストを受けてきたものです。それが我々のナラティブです。
 このナラティブを変更しようとすれば、何百年かかけて少しずつ微調整とテストを繰り返し、システム内部から自分たちの考え方を変えていかなければなりません。現にデモクラシーやら結婚制度やらについても、100年前、50年前とは我々の内側からの考え方が大きく変わっていますよね。

村上春樹 『インタビュー集 夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文春文庫)1/2

<1997年> 『アウトサイダー』p18-9

 僕はポップカルチャーみたいなものに心を惹かれるんです。ローリング・ストーンズ、ドアーズ、デイビッド・リンチ、ミステリー小説。僕はだいたいにおいてエリーティズムというものが好きじゃないんです。ホラー映画も好きだし、スティーヴン・キングやレイモンドチャンドラーを読むのも好きです。
 でも自分でそういう作品を書きたいとは思わない。僕が必要としているのは、そのような物語のストラクチャーなんです。そのような「外枠」の中に、僕自身のものを詰め込んでいきたい。それが僕のやり方であり、僕のスタイルです。
 だからどちらの側の作家にも、僕は受け入れられないのかもしれない。エンターテインメント的なものを書く作家たちもぼくの書くものを気に入らないし、文学系の作家たちもぼくの書くものを気に入らない。どちら側にも僕は属することができない。そんなわけで、僕は日本の社会では自分の居場所みたいなものを、うまく見つけることができなかった。
 でも最近になって、状況みたいなものが少し変わってきたかなという感じがあります。僕の収まることのでき領域が少しずつ増えてきたかな、と。僕はもう15年ほど小説を書き続けていますが、僕の作品を買って読み続けてくれる読者を確保しているし、彼らは少なくとも僕を支持してくれている。それは大きいことです。
 自分が収まっていられる領域がそのように増加するにつれて「日本の作家」としての責任感みたいなものを僕はより強く感じるようになってきました。今もそれは感じていますし、それは僕が2年前・1995年に日本に戻ってきた理由の一つにもなっています。そしてちょうどその年の5月3日地下鉄サリン事件が起きました。