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大岡昇平 『俘虜記』(新潮文庫)1/2

 軍需工場サラリーマンにしてスタンダール研究者だった大岡昇平一等兵は昭和20年1月、36歳のときにフィリピン・ミンドロ島で米軍捕虜になった。ミンドロ島は日本軍による捕虜虐待事件「バターン死の行進」で有名なルソン島バターン地方にある。
 極度の疲労状態で捕まった直後、大岡は野戦病院に収容され、手厚い看護と栄養充分な食事におどろいた。バターンでの捕虜虐待のことは当然よく知っていたから、ジュネーブ条約にかかわる捕虜の扱い方の彼我の差を知らされ、ひよわな日本が圧倒的な米国に戦いを挑んだことのばかばかしさを、あらためて思い知らされた。

 野戦病院でそれまでの疲労と飢餓状態から回復すると、大岡はレイテ島にあるタクロバンやパロの収容所に移送される。『俘虜記』は20年12月まで過ごしたこれら収容所での生活記録だが、基本的に大岡は、野戦病院に収容された直後から日本への帰還船に乗るまで全期間を通して、「先進文明国の捕虜」になった自分の幸運を体深くかみしめている。読む人は、後年文学者としても個人生活でも幅広い分野に関心を示し続け、棘のある言動も多かった大岡が、アメリカが守るべき戦争の規律はきちんと守った西欧文明国でもあったことを認めた点に感銘を受ける。

 A<アメリカが原爆を日本に落としたこと>と、B<アメリカが戦争捕虜を虐待しなかったこと>は、本来全く別次元のことがらである。AとBは順接の関係にも逆接の関係にもない。近代文明の下では、大きく国家においても小さく個人においても、AとBはいつでも両立しうる。ただし、当時のソ連やドイツや日本ではAとBが両立する可能性は小さい。
 個人と国家は分離されておらず、国家は個人の運命共同体であり、敵の国家への敵対心は個人的な恨みつらみと同種のものだからだ。だから降伏した敵国の捕虜に対しても、その恨みつらみを晴らすため、戦闘中と同じように接する。ドイツはいざ知らず、わが日本では個人と国家はいまだに分離されていないことは、現首相や一部閣僚の学校教育にかんする発言を見れば瞭然としている。