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長谷川 宏 『丸山眞男をどう読むか』 講談社現代新書

 非常に読みにくい。文章途中や段落が変わるときの接続語を足したり引いたりしながら何とか七割ほどは読めたが、政治思想史に詳しくない読書家が読んだら、激しい反感を買ったのではないか。

 私が気に入っている福沢諭吉に関連した章があったので、そこだけ書き抜く。

 『文明論之概略』で福沢諭吉は「惑溺」という語を何度も使っているが、この語でもって福沢は何をいおうとしたのか。福沢のものの考え方を「自由の弁証法」と名づける丸山はこう説明する。・・・物事に対して常に柔軟な知性をもってあたることのできるひとたちのことを福澤は「彼は惑溺せず」という。惑溺とは、懶惰な精神を持った人が、少し複雑な政治経済状況に囲まれたときに彼がとる精神的態度のことであるあるらしい。そのとき、惑溺しやすい人々はあらかじめ与えられた規準を万能薬として、それによりすがることによって、価値判断のたびごとに、具体的状況を分析する煩雑さから免れようとする。

 困ったことにこの抽象的判断基準は、ある個別的状況だけに対するにとどまらない。この人たちにおいては、その時々の状況に対して判で押した公式主義と風見鶏の機会主義は一見相反するように見えて、じつは同じ惑溺の、時と場合で異なった現れ方にほかならない。いまだもってわたしたちは種々の惑溺になかにいるともいえるので、学歴社会だの、リストラだの、IT革命だの、行政改革だの、国防論だの、どれもがいずれも与えられた万能薬としての公式論の要素を多分に含みつつ、洪水のように流通している言葉である。

 例えば民主主義という大きな言葉があるが、この言葉の中には大統領制の民主主義国家を選択するのか、あるいは、天皇が譲位の意向を国会に諮ることもなく自分の意思を貫き通すの許す「民主主義」国家を選択するのか、巨大な問題が潜在している。「民主主義」に惑溺し、自由な弁証法的議論を欠いている間は、100年たっても何一つ解決しないだろう。