時代は太平洋戦争が終わってすぐの頃。主人公・土岐数馬は三高理科を卒業後、文学部哲学科に進路変更し、西田幾多郎の門下で、とくに宗教哲学の分野で芽を出しつつある優秀な哲学の徒。三高教授と京大講師を掛け持ちしている。
そんな彼のところに東大寺塔頭観音院住職から、大乗仏教の最高経典である華厳経の60巻のドイツ語に翻訳し、世界各国、特に西欧の宗教・思想関係の機関・大学に贈呈しようという大きな仕事が持ち込まれる。華厳経は釈迦の悟りの内容をそのまま叙述したものとされており、そのドイツ語化が実現すれば思想の深遠・豊潤さにおいても、規模の壮大さにおいても空前のものとなることは間違いない。
しかし彼は躁鬱病という厄介な障害を抱えており、時折それが顕在化して、特に躁状態の時に仕事は爆発的な進み方を見せるが、同時にこの時期は普段の生活状態が破綻し、家が片づけられず散らかし放題になり時には水道を出しっぱなしにして家じゅうを水浸しにしたりする。そして彼は本のタイトル通り「風狂の人」そのものとなり、この状態が短くて数週間、長ければ数か月と先が読めないことが周囲をさまざまな混乱に陥れる大きな要因になる。
本書はこの壮大な翻訳事業の進行を縦軸に、彼の病状の起伏を横軸にして、ジャーナリスティックな脱線話を一切盛り込まずに、とてもロジカルに、周囲の干渉を一切排除するかのようにして、静かに進行する。
登場人物の顔ぶれが圧倒的である。日本人から紹介すると獨協大学の創立者天野貞祐、日本哲学京都学派の創始者で『善の研究』の西田幾多郎、京都学派2代目の総帥田辺元、『偶然性の問題』の九鬼周造、宗教哲学で名をあげた西谷啓二をはじめ、和辻哲郎、伊吹武彦、高坂正顕、下村寅太郎などの哲学者群、文学の方からは辰野隆、小林秀雄、花田清輝、武田泰淳、三島由紀夫、野間宏、椎名麟三などが、主人公・土岐数馬のアイデア造成に何らかのヒントを与えている。
そしてヨーロッパ側からはフッサール、ブレンターノ、ニーチェ、ディルタイ、ベルグソン、ハイデッガー、ボードレール、リルケ、ヘーゲル、ゲーテ、キェルケゴール、サルトル、パスカル、トーマス・マン、ヴァレリーなどの著作が、ドイツ語版華厳教の論理構成の強化と読みやすい文章制作に力を貸している。
こうした周囲の人々の名前を挙げるだけでも、本書に注がれた作者の渾身の情熱が分かろうというものではないか。ただ本書結末において、主人公が長年付き合ってきた躁鬱病がその正体を見せるのであるが・・・。