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ジャン=ポール・サルトル 「言葉」

 サルトルは40年ぶりか。幼児期を過ごした父方シュバイツアー家の祖父を中心にした、「工場は風景を台無しにするものとし、純粋科学はその純粋さだけをあじわい、家族全員が音楽を愛する」十九世紀的人間が美しい。少なくとも前半「読む」は全部の行が隠喩であり象徴であるという散文詩である。「一冊の本よりも大切なものがあるとは思われなかった」サルトルの、簡潔なフランス語の薄く硬い膜で被われた飛びぬけた知性。突き抜けえない「世界の厚み」について語りながら、それを複文構造の論理で正確に記述しようとするドイツと、あくまで皮膚感覚で測ろうとするフランスのちょうど中間地帯でサルトルは育った。ヨーロッパというものの地層の厚さ。
 p48
 (祖父に真顔で与えられた本を読み始めた子供時代、)あらゆる事物に名前を与えること、それは事物を創造することだと思っていた。この根源的な幻想がなかったら、私は決して物書きにはならなかったろう。
 p50
 世界の理解はほとんど祖父の書物から来ていたため、私はスタート時点で80年ものハンディキャップを負っていた。しかし変化の激しい社会では遅れが有利にはたらくこともある。いずれにせよ、私は与えられた餌を向こうが透けて見えるまで噛みしめた。
 p66
 左翼の老政治家が行動で示した右翼的箴言。「真実と寓話は同じものだ」「人間とは儀式の存在だ」。(嫌気がさしてか突然)辞任した鳩山にもふさわしい言葉だ。p71で幼いサルトルは、自分は何ものでもない、世界に刻印を押せていないと嘆いたが、鳩山はそのフリーメイソンらしい不審な刻印を世界に押したのだろう。勉強していない日本のメディアはそのことを一行も言わない。
 p77
 祖父シャルル・シュバイツアーは極めつけの役者だったから、もちろん「大いなる観客(神)」を必要としていたが、死ねば会えると確信していたから生きている間は距離をとろうとしていた。
 p77
 神秘主義は、場違いなところにいる者や、定員外の子供に向いている。
 p137
 作家は、自身のなすべきことは皮膚の下に縫いこまれていて、一日でも書かずに入ると傷跡がうずく。作家は自分が本を製造する機械にすぎないことをよく知っている(シャトーブリアン)。
p147
「世界は悪に曝されている。唯一の救いは、自分自身を捨て、この世を捨て、崩壊した世界の底から不可能な『理念』を観想することだ。」なんというくだらないおとぎ話だろう。しかし私はわけもわからずこの話を鵜呑みにし、二十歳になってもそれを信じていた。
 p149
 (子供時代の)私は恩義を感じる人を望んだのであって、読者を望んだのではなかった。軽蔑のために私の高邁な精神は失われた。夢の中で孤児の少女を護っていた時すでに、私は彼女らに身を隠させ、厄介払いをしていた。
 p158
 私は英雄的精神によって作家になり、自分のおしゃべりや意識をブロンズの活字の中に流し込み、生活の物音は消しがたい刻印に、肉体は文体に、時間の緩慢な螺旋は永遠にとって替わられるであろう。私は子供のときに(九歳なりに崩壊した世界の底から不可能な『理念』を観想していたから)、人間に特有といわれているある種の悲壮な感情を感じる能力を除去されてしまっていたのだ。ポール・ニザンなどエコール・ノルマルの同級生たちはそうではなかった。・・・よくいわれているそうだがサルトルの不思議な鷹揚さの淵源かもしれない。
 p163
 (後世のものは)歴史上の人物が予見していなかった結果や、彼の持っていなかった情報に照らし合わせて、彼の行動を評価してしまうし、彼自身が何の気なしに行ったが、後には重要な出来事を引き起こした行為に特別な荘重さを与えてしまう。これが現在よりも未来のほうが現実味を持つという蜃気楼である。すでに終わってしまった生においては、終わりが始まりの真実をもっているからだ。
 p188
 私は自分だけを原因としたかった、世界が自分のために作られてはいない不幸を非難するよりは、自分を非難するほうを好んだ。この尊大な態度は謙虚さと同居できるものだった。私は善に至るための最短の道にいるのだから、どうしたって抵抗に出会う。私を絶えず『進歩』のほうに向かわせるのは、自分を第一原因にするとき、この抵抗という魅惑に会えるからなのだった。(不思議な鷹揚さと尊大さの同居)
 p192
 私が未来へ未来へと突き進み、友人たちとの共通の出来事さえも忘れたように振る舞い、ついこの間の自分を簡単に断罪するとき、その誠実さや鷹揚さは人をいらだたせる。私は常に同一人物であるはずなのに、もう動かなくなった抜け殻だけを人々に投げ与えるように思われるからだ。
 p201
 独断的であった私はすべてを疑っていたが、自分が懐疑の選民であることは疑っていなかった。
 サルトルという人間の複雑さを、ピンセットで細胞を一つずつつまむようにしながら、明らかでないことを論理のうちに混濁させずに率直に語っている。しかしこの理解は50歳を超え複雑と曖昧の区別がついたときのもの、理性の超えられない「公準」を思い知ったときのものであって、学生のときに読んだら 「九歳なりに、崩壊した世界の底から不可能な『理念』を観想していた」 などという章句は頭に入ったろうか。