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2010-11-01から1ヶ月間の記事一覧

平野啓一郎 「決壊」 1

毎年ノーベル賞候補になっているらしいベストセラー作家を超えて、日本の今世紀最大の作品ではなかろうか。売上部数ではかなわないだろうが。その人にあったような、伏線の未解決や登場人物の俗悪な台詞もまるでなく。主人公の錯乱と自殺の悲劇も確かな納得…

村上春樹 「1Q84」 2

推理小説として読めば、若いころ株式運用に天才を見せる一方で、男遍歴を重ねた柳屋敷の老婦人が物語全体の黒幕だ。教団「さきがけ」を主宰する深田(彼はオウムの林泰男を想わせる)は老婦人の「長い間うまくいっていない」長男だろうし、深田は母親の若い…

村上春樹 「1Q84」 1

数百万部も売れただけに、とてもおもしろかった。難解な文章は一箇所もなく、リピーター読者を悩ませたりしない。熱心な小説読者ではないのでよく分からないが、「大きな物語」とか「ロマン」を作らせたら圧倒的第一人者ではないか。 バカな新聞書評にあった…

リュドミラ・ウリツカヤ 「通訳ダニエル・シュタイン」下

p51 ガリラヤのラビ、イエス・キリストはたくさんのことを語りましたが、彼が伝道したことの大半を、ユダヤ人は律法としてすでに知っていました。イエスのおかげでこの戒律は世界全体に知られるところとなりました。彼はそれ以前にはまったく知られていなか…

リュドミラ・ウリツカヤ 「通訳ダニエル・シュタイン」上

分厚いヨーロッパ精神地層の基礎にあるユダヤ=原始キリスト教からは、いまだにどの現代哲学も離れることができない。離れようとすれば、哲学の論拠は数学・物理学と論理学以外になくなり、数学・物理学と論理学の普遍妥当性をいったん問えば、それはリーマン…

養老孟司 「脳のシワ」 

p180-2 聴覚系の脳はしばしば論理的である。視覚系の脳はその逆である。論理とは耳のものなのだ。目は「パッと見てとる」もので、目に理屈はじつはない。理屈はじゅんじゅんに説くもので、それは耳が得意なのである。論理は言葉によって尽くされるしかなく…

辻原 登 「許されざるもの」

「許されざるもの」とは「悪人」の意ではない。和歌山・新宮で、百年前、幸徳秋水の大逆罪事件に関連し、処刑された医師がいたらしい。この小説はその彼ら一党の鎮魂の物語であり、「未熟な国家が許さなかった民の英雄たち」の意味にとるのが正しいようだ。…

井筒俊彦 「意識と本質」 5

p273 「神以前」の無から出発する(ユダヤ的マンダラとも言える)セフィーロート体系はそのまま外に進展して世界を構成していくのではなく、むしろ内に向かって、神の内なる世界を構成していく。つまり神自身を内的に構造化する。セフィーロート体系の有機…

井筒俊彦 「意識と本質」 4

P207 一つの「元型」は、顕現の形態が文化ごとに違うばかりでなく、同一文化の圏内においてさえ、多くの違ったイマージュとなって現われる。われわれは、自分自身の深層意識領域に生起するそのような複数のイマージュ群の底に、一つの「元型」的方向性を感得…

井筒俊彦 「意識と本質」 3

P136 ここ、目の前に一本の杖があるとする。絶対無分節の存在リアリティーは「いまここでは」杖として自己分節している。だが、それは杖であるのではないと禅は言う。「本質」で固定された杖ではない。ほかの何でもあり得るのだ。(この禅的存在風景の中では…

井筒俊彦 「意識と本質」 2

P109 原子論者たちは徹底した偶然主義の立場をとる。存在界を完全な偶然性の世界と見る。経験界の一切の事物を、もはやそれ以上分割できないところまで分解し、それら相互の間に、したがってそれらの複合体も含めての経験的事物の間に、時間・空間的な隣接以…

井筒俊彦 「意識と本質」 1

「あの人の本性は一体何か」、から、「生命とは何か、神とは何か、貨幣とは何か」、まで私たちはそれらの「内部にあるように見える」モノについて見極めようとする。いわゆる「本質」を見ようとする。しかしその「内部にあるように見えるモノ」は決して物質…

小坂井敏晶 「責任という虚構」

「責任という虚構」の論旨は、書評の通り犀利である。筆致は簡潔であり、在仏30年の著者らしく Ce qui n’est pas claire n’est pas francais. の明晰さが心地よい。 p22 人の行為は意志決定があってから遂行されるという、デカルト以来の近代西欧合理主義の…