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井筒俊彦 「意識と本質」 2

 P109
 原子論者たちは徹底した偶然主義の立場をとる。存在界を完全な偶然性の世界と見る。経験界の一切の事物を、もはやそれ以上分割できないところまで分解し、それら相互の間に、したがってそれらの複合体も含めての経験的事物の間に、時間・空間的な隣接以外のなんらの連結も認めない。全存在界は、互いに鋭い断絶によって分離された無数の個体の一大集積として理解される。
 P114
 一方でアリストテレス主義者アヴェロイスは原子論に正面から反対して、存在と作用との間に密接な内的連関のあることを説く。「存在する」とは「働く」こと。「働く」とは「存在する」こと。存在者の内部構造そのものがそのまま自己表現して作用となる、と。ついでながら、ここで「働く」とは、もちろん、普通にいわゆる運動のことだけではない。例えば花が赤くなる、つまり赤い色として我々の感覚器官を刺激することも一つの働きである。
 アヴェロイスは言う。「すべての存在者は必ずそれ自身の能動的作用性をもつ。それがなければ、はじめから存在者ではない。そして各存在者の作用性の源がそのものの「本質」なのである。仮に「本質」がないとすれば、すべての事物はその名を失い、定義は無意味となり、相互にまったく区別できなくなる。全存在界はカオスとなり、理性は無力化する。そのような完全な無秩序の世界において、人はもはや何事についても何もいえず何も知りえないであろう。」
 「神の全能性を誤った形で尊ぶあまり、原子論者たちはこうして存在の本源的偶然性を主張するにいたる。その結果は不可知論。不可知論に陥ることによって、彼らは人間の尊厳を傷つけるばかりでなく、世界をそのようなものとして創った神を冒涜する。もし神の摂理を考えたいのなら、あらゆる事物の一々にそれぞれの「本質」を与え、事物それ自体に内蔵されたロゴスから発出する作用を考えなければならない。この作用を通じて神は因果律的に規定された整然たるコスモスとして世界を創ったのだ。」
 P129
 (ところで虚心に見ると、「存在」は世界の幾つかの文化枠組によってその捉えられ方に濃淡がある。)存在があらかじめ文化枠組的に分節されているということは、要するにいろいろな「本質」が始めから文化的に措定されて与えられている、ということだ。各々の文化にとって、現実はそのような「本質」の、それぞれに違う連合的総体である。
 古代ギリシャには古代ギリシャ特有の「本質」体系があったし、古代中国には古代中国独特の「本質」体系があった。事物の永遠不易な「本質」(イデア)を探求することで新しい哲学運動を興したソクラテスプラトンも、同じく事物の「本質」(実)を求めてその上に正名論を建てた孔子も、それぞれの文化の規定する「本質」体系の制約を脱することはできなかった。
 言語(ラング=体系としての言語)は既成の諸「本質」の体系的記録である。ある一つの文化共同体に生まれ育ち、その共同体の言語を学ぶ人は、自然に、それと自覚することなしに、その文化の定める「本質」体系を摂取し、それを通じて存在をいかに分節するかを学ぶ。学ばれた「本質」体系は全体的に「文化的無意識(言語アラヤ識)」の領域に沈殿して、その人の現実認識を規制する。
 P130
 このことは「文化的無意識」としての「言語アラヤ識」の中に、すべての「本質」がきちんと完成された形で整然と収まっているというのでは、じつは、ない。無意識とかアラヤ識とか呼ぶこと自体が示唆しているように、「本質」を意識のこの深みまで追求してくれば、それらはすべて潜勢態特有の存在性の希薄さの中に幽隠してしまうのだし、それにこの領域には、まだ「本質」として定着できない、あるいは結晶しきれない、無数の浮動的な意味体が、結びつ解かれつしながら流れている。無意識奥底のこの紛糾の場において、唯識哲学のいわゆる存在「種子」が形成されていく。そしてそれらの「種子」が、機会あるごとに潜勢態を脱して、(個々別々の事物が現出する)「転識」的意識の表面に現勢化し、そこに経験的事物の「本質」を分節しようとする。
 P131
 「言語アラヤ識」の深みから自然に生え出てくるとしか言いようもないような「本質」。無意識の所産であればこそ、経験的意識にからみつくその執拗さは凄まじく、それを払拭することは非常に困難である。経験的世界は、どのようにしても、さまざまに分節された個々別々の事物の集合として認識されてしまう。事物のこの「本質」的分節構造を毀せば、経験的世界は混乱状態に陥ってカオス化し、意識主体もその本来の生理学的な認識機能を喪失してしまうおそれがある。しかし、禅は、あえてこの危険を犯そうとする。