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ハナ・アーレント 「全体主義の起源」第三巻「全体主義」 1

 二十世紀政治哲学の最大の著作といってもいい「全体主義の起源」は第三巻から読み始めるのがいいとされている。一・二巻を見なければ分からない概念はほとんど出てこない。彼女が告発する「我々が犯した史上最大の悪」は我々が我々である限り、これからもどこでも再び犯されるだろう。我々のクラウドとしての部分は再犯のときも自らの前科を意識しないだろう。
 もちろんここでクラウドとは寄る辺ないCROWDのことであり、「上等な」ネットコンピューティングサービスのことではない。子供が雲をつかもうとするようなCLOUDには無限のリンクを張るが、カネにならないCROWDには知らないふりをする、グーグルの世界観はその程度のものである。

 p4
 全体主義運動においては、犯罪の被害者が自分たちの運動のメンバーであってもやはり同じ犯罪賛美、あるいは少なくとも同じ冷淡さを示す。そして、共産党の歴史に無数の例があるように、自分自身が犠牲者となった場合でも、運動の信奉者は確信を揺るがされない。
 p6
 全体主義運動は大衆運動であり、現代の大衆が自分たちにふさわしいと考えた唯一の組織形態である。全ての政党は、利益政党、世界観政党として国民国家の諸階級を政治的に代表するから、小国における大政党ということもあり得る。これに反して運動は幾百万もの人々を擁してはじめて運動たりうるのであって、人口の少ない国では成立不可能である。
 p8 
 小国では、全体主義の支配機構がたえず要求する厖大な人命の損失に耐えられる人的資源を持つことができない。ヒトラー自身の立案による「国家保健法」では、ナチは「劣等人種」の次に心臓病・肺病のドイツ人患者を絶滅ターゲットにあげていた。
 p10
 ヨーロッパの全体主義運動の興隆に特徴的な点は、これらの運動が政治的にはまったく無関心だと思われていた大衆、他の全ての(階級)政党が馬鹿か無感覚で相手にならないとあきらめていた大衆からメンバーをかき集めたことである。(だから)運動は原理的に政党制度の枠外に身をおいたばかりでなく、・・・敵の論議を意に介する必要もなく、意見をもっていない大衆を論議によってを説得する必要などさらさらなかった。
 p12
 運動は平和時のただなかに、革命的変革を伴うことなしに、正常な政治的プロパガンダに内戦の手法を持ち込むことができた。敵を論駁する変わりに殺害し、組織されていない人々を説得する代わりにテロルで嚇すという手法である。
 運動の大衆的成功は、一国の住民は公的問題に関心を持つ市民でもあり、その多くが関心を寄せている政党があり、自分は投票所に行かなくてもその政党によって自分も代表されていると感じている、という大きな幻想を叩き潰した。
 全体主義運動が実証して見せたのは、多数決原理にもとづいて機能する民主国家でありながらそれは少数者のうちの多数派にすぎず、民主制原理は政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎないことだった。
 p13
 運動が成功したのは、全体主義指導者に優れた奸智があったからでも、民主主義的政治家側に救いがたい愚かさがあったからでもない。民主主義的自由と法の前の平等は、市民が自分を代表してくれる特定の集団に属しているか、社会的・政治的ヒエラルヒーの中に生きており、それが(ヒエラルヒーとして)相互に差別しあう場合にのみ機能する。
 しかし自由と民主主義の思想の浸透は、政治的教育を欠いたフラットな大衆にとっては、自分を代表する特定集団やヒエラルヒーの自壊を意味するのは自明のことだ。「自由な私が何かに属し、差別されるなどありえない」からである。全体主義運動への積極的参加者は実際には少数であったが、大衆を代表できず動きのとれない旧来民主主義者と多くの消極的市民の将来は、ただ僥倖を頼むだけになりつつあった。

 p18
 階級構造の瓦解とともに、これまで政党がその無関心で受動的な支持を当てにしてきた未組織の大衆が、今では無関心を捨て、政党への支持を止め、打って変わっていたるところで敵意を見せ始めた。
 各政党の背後に立っていた無関心の潜在的多数派は、絶望し憎悪を燃やす無構造の大衆へと変容した。これまで共同体員のなかで最も多くの情報を持つとして尊敬されてきた人々は、逆に、愚鈍なあるいは詐欺師のように卑劣な人格として、他のもの全てを奈落のそこに突き落とすべく既成の諸権力と手を結んでいた、と彼らは見たのである。
 p20
 彼らは、自分はいつでもどこでも取替えが聞く、と感じていた。それまであったかのようにみえた共同体の世界を失うことによって、大衆化した個人は一切の不安や心配の源泉を失ってしまった。彼らは「唯物的」でさえなくなっており、唯物主義的議論にはもはや耳をかさなかった。彼らには純粋に物質的な利益すらほとんど意味を失っており、彼らの無世界性に比べれば、キリスト教の修道士すら世俗への関心に満たされているといえよう。
 ヨーロッパの政治学者たちが予見できなかったのは、徹底した自己喪失というまったく意外なこの現象であり、自分自身の死や他人の個人的破滅に対して大衆が示したこのシニカルな、退屈しきった無関心である。
 p22
 ヨーロッパの場合、階級の解体以前は、各個人は生まれると同時に一つの階級に属し、成功や失敗とは関わりなく終生そこにとどまるという仕掛けが、個人の孤立感を一定の限度内に抑えていた。
  日本ではそうではない。ヨーロッパのような階級はもともとなかったが、逆にそれだからこそ、教育が進み、「個人」が概念として理解されてくると、社会の制度が大きく変わらなくても、個人のアトムとしての孤立は容易に体感されるようになる。ネットの中には、どんな共同体にもならない、フラットで無構造なだけのアトムの総和が、方向性のあるような・ないような蠕動運動をしている。
 p34−35
 全体主義の粛清裁判は、告発がどの場合も個々の該当者だけでなく、彼の人間関係のすべての人を巻き込むことが特徴である。「ユダヤ人と交際するものはユダヤ人である」とされるから、誰かが告発されるやいなや、彼の友人は一夜にして最も危険な彼の敵になる。友人は検察調書にありもしない中身をたっぷり盛り込むことでしか、自分を守れないからである。
 全体主義の成員にとっては 友人を裏切る用意のあるもののみが信頼に足る人間である。疑わしいのは友情その他一切の人間的紐帯なのだ。すなわち、およそ友人を持つほど危険なことはない。こうしてロシア大衆社会のアトム化は、他の諸国をはるかにしのいで一人ひとりを孤立させた。
 p36−37
 成員あるいは一般に人間の忠誠は、特定の意見あるいはそれを持っている人間に捧げられる。全体主義は世界観問題を具体化するような政治的プログラムを公にしない。なぜなら、そのような目標やプログラムは、その具体性のゆえに意見を生む余地があり、したがって意見の変更もまたありえ、忠誠の対象変更もありえるからである。これを知悉していたヒトラーは、香具師や「救世主」たちのものだったナチを手に入れた後、党の綱領改革を棚上げしてしまった。
 p39−40
 全体主義の代表者は、彼に指導される大衆の代表に過ぎない。指導者なしでは大衆はただの群れだが、大衆なしには指導者は無である。ヒトラーはこの関係をよくわきまえていた。
 国家社会主義もボルシェビズムも、新しい国家形式を宣言しなかったし、目標が国家機構の掌握であることも主張しなかった。全体主義にとって権力掌握は過渡的段階に過ぎない。運動の終息点となるべき政治的目標となると、そのようなものは全く存在しないのである。
 p41
 知的エリートは、階級社会崩壊による全体主義台頭のずっと以前から、その理解力によって大衆というものを理解していたが、まさにそのゆえに社会と絶縁していた。
 p43
 第二次大戦前にナチのある党員が「文化という言葉を聞くだけで、オレは銃を構える」といったのは、第一次大戦前のヨーロッパ上流社会の途方もない偽善に対して、知的エリートが抱いた気持ちと大差はない。世界のすべてを崩し去る第一次大戦の開戦に「ひざまずいて神に感謝した」のはヒトラーだけではなかったのだ。
 p53
 ブルジョワジーがヨーロッパの伝統の守護者を気取り、数々の「美徳」をひけらかしていた限り、モッブたちの残虐や非人間性の一種の誇示は知的エリートにとって革命的に見えた。知的エリートはこの社会がいかにもろいかを認識せず、自分たちは依然として二重道徳の偽善に満ちた薄明の中に生きている、それは当分続くと思い込んだからこそ、モッブたちの残虐さを「ブルジョワジーの鼻先に突きつけてやるべき恐怖」として解釈たのだった。知的エリートはブルジョワジーとモッブ社会の昔からの関係には無知であり、恐怖の犠牲者になるのはブルジョワジーではなく、自分たちであることには思い至らなかった。
 p57
 ヒトラースターリンも、全体主義の指導者は、ブルジョワジーの犯罪人世界たるモッブの出であったにもかかわらず、彼らが望んだのは社会的地位ではなかった。彼らはいかなる事業意欲も、人間の全体的支配にとっては危険でしかありえないことを知っていた。
 支配と破壊の装置としては、大衆こそいわゆる職業的犯罪者よりもはるかに大きな犯罪、日常的な仕事にまで組織された犯罪、を犯す能力を持っていることを知っていたのである。
 p60
 知的エリートや芸術家のイニシアティブは全体的支配にとっては、政治上の敵よりも大きな脅威となる。全体的支配は完全に予見できない行為を認めることができないから、どの生活領域にも自由なイニシアティブを許すことができない。
 p62
 ソビエト秘密警察では、幹部は平の党員から選抜されるが、選ぶのは一方的であり志願の機会はまったく与えられていない。志願とは「自由」を認めることであり、「完全には予見できない行為」がありうることを、党みずからが認めてしまうことだからだ。平の党員を、私生活の全てにわたって公然と均制化・画一化しながら、一方でこうした自由を認めるのは明らかに矛盾である。
 p64
 ボルシェビキ政府が、社会主義に失業はあってはならないというイデオロギー要求を貫徹するために取った方法は、失業給付を一切廃止してしまうことだった。ロシアにいるのは失業者ではなくなり、乞食と反社会的分子だけになった。そして働かざるものは食うべからずという古くからの原則は徹底的なやり方で完遂されたのである。
 p74
 全体主義下の大衆は、自分達の利益をまもる自己保存本能に動かされていない。利害というものが集合的な力として重要であるのは、人々が集団別に組織された社会の中にある場合である。しかし階級が解体した社会では、プロパガンダがいかにむきになって物質的利害に訴えようと、大衆的人間には何の効果もない。
 p76
 世界観政党の指導者の絶対条件は「繰り返し実証される」無謬性である。下等な人間達、死滅しつつある社会層を「さっさと片付けてしまう」のは、かつて誤ったことがない指導者からの「倫理的要請」である。
 p80
 大衆は自分を信じていないから、自分の経験を頼りとせず、五感も信用していない。それゆえに彼らにはある種の想像力が発達していて、いかにも宇宙的な意味と首尾一貫性を持つように見えるものなら、なんにでも動かされる。
 大衆を動かすのは、大衆に約束する、勝手にこしらえた統一的体系の首尾一貫性だけである。あらゆる大衆プロパガンダにおいて繰り返しがあれほど効果的なのは、大衆の呑み込みが悪いからではない。論理的な完結性しかない体系に、繰り返しが時間的な一貫性を架装するからである。
 p84
 プロパガンダの嘘が最大の効果を収めるのは、秘密の雰囲気に包まれている公的な諸機関を狙ったときである。存在が秘せられているものに触れたときは、外観は真実に最も近く映る。
 p86−88
 ナチプロパガンダは、党員一人ひとりに非ユダヤ系血統証明書を要求した。これは党員にとっては彼個人の存在に関わる極めて貴重なものとなった。非ユダヤ系血統は「自己規定の原理」であったから、反ユダヤ主義の意見潮流の絶えざる変転から隔離され、彼らは安定することができた。
アトム化された大衆にとっては、自己確認の手段、失われた社会的威信のまことに有効な代償物が生まれたわけであり、ヒステリー的自信という一時的な気分に理論的基礎が与えられたことを意味した。