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平野啓一郎 「決壊」 2

 この小説には「避けられない悪」のつきつめた議論がある。種の絶滅を回避する仕組みとしての圧倒的に多様な個体が、それぞれにありとあらゆる環境に投げ込まれる。しかし、個体は世界に「投げ込まれ」るのだから、本人は責任のとりようがない。ならば、遺伝と環境がある確率で組みあわされ犯罪に結果しても、「犯罪者」その人の責任は発生しようがない。
 個体は、遺伝されたある起因子と環境中のある因子が途方もない確率で組み合わされたものの「ペルソナ」でしかなく、きわめて危険な犯罪傾向性のある性格も、彼が個人として責任を取れるかたちで選択したのではない。
 反社会性パーソナリティ障害はパーソナリティ障害(personality disorder)の一種ではあるが、他の障害と異なる精神病理学的な特徴が確認できないという。反社会性パーソナリティ障害はもっぱらその「行動」があったときはじめて、その行動に対して診断されるという。分かりやすくいえば、犯罪が起きるまではそのひとは単に気の毒なパーソナリティ障害者に過ぎないわけで、その人に対する犯罪予防の措置はきわめて難しいのだ。
 permanent fatal errors ――修復されえないシステムエラーとしての世界。悪魔のような人間がどれだけいようとその社会が修復されえないのは、悪魔のような人間も含めた個性の限りない多様性こそが、種を保存する最善の策だからである。
 「決壊」の暗い結末の余韻は数日間読者を陰鬱に沈めてしまう。ネット世界での暗さは「世界均一」であるがゆえにどこにも一瞬の明るさを抽出しようがない。引きこもりの幼稚な中学生と病的犯罪者を一瞬でつなげてしまうコンピュータネット。そのドブ世界のような暗さがブラックマターのように世界の大半を覆うようになると思えば、ニヒリズムは避けようもない。
 その意味で「決壊」は「結界」の破れでもある。まさに破られようとしている「(平野啓一郎さえ守りに入らざるを得ない)人間社会の結界」の意。兄・崇との能力差に悩む弟・良介も、その妻も、崇になつくその子も、定年後の無聊で鬱病の淵にいる父も、父と長年不仲な母も、崇の3人のガールフレンドも、時々いっしょに酒を飲む室田も、崇は懸命に、結界の内に守ろうとした。それが、「悪魔」が弱点を発見した社会システムのpermanent fatal errorsによってすべて決壊してしまった。
 書評にあった「何らかの理由で、適合的な感情プログラムのインストールに失敗した場合、その社会システムにおける家族生活も就業生活も、友人関係も性愛関係も、継続的に営むことが困難となる」という、「悪魔」や引きこもり少年のゆがみの原因を衝いた言葉には一瞬の説得性がある。しかし実は、これは何の説明もしていないのであって、「感情プログラムのインストール」とは何なのかが語られなければ、「人や社会への優しい感情が育まれなかった」という法律文章にあるような陳腐な言葉の、言い換え以上のものにならない。
 「人や社会への優しい感情に欠ける一群の人々」はいつもいるのであって、コンピュータ時代にはそうした人が自分の特異な衝動を容易に世界に発信可能になっただけである。
 感情プログラムとは何なのか。DVDに乗るような規模の「プログラム」ではあるまいし、一億ステップのプログラムがあったとしても、時間軸上でそれは少しずつ自動更新されてゆくものだろう。またインストールを受け入れる間脳などの『生体ディスク』の「傾向」とも密接に関連し、さらに生体ディスク自体が周辺から絶えず影響を受けているから、時間軸での変転は極まりがない。
 変数がいくつあるか不明な方程式は解きようがない。それは方程式とさえ呼べるのかどうか。ある生物進化が進行しているとき、その内側にいる個体は進化全体を俯瞰することはできない。進化を止めようとするものは生存に参加できない。生き続けることは permanent fatal errors を強化するだけのことかもしれないゆえに、主人公・沢野崇は自殺したのだった。