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トクヴィル 「アメリカの民主主義」 3

 第三巻
 p26
 共通の観念なくして共通の行動はなく、共通の行動なくしては人間は存在しても社会はない。社会が存在し繁栄するためには、市民の精神がいくつかの主要な観念によってまとめられている必要があり、教条的信仰は不可欠である。
 p29−32
 市民がたがいに平等で似たものになるにつれて、国王のような特定の人間や階級を盲目的に信ずる傾向は減少する。市民全体を信用する気分が増大し、ますます世論が世の中を動かすようになる。平等の時代には人々はみな同じだから、公衆の判断には無限の信頼をおくことになる。なぜなら、誰もが似たような知識水準である以上、真理が最大多数の側にないとは思えないからである。
 平等は人を同胞市民の一人ひとりから独立させるが、その同じ平等が一人ひとりを孤立させ、最大多数の力に対して無防備にする。最大多数は信仰を説きはしない。しかし、一人ひとりの知性が抗しきれない圧力を通じて、信仰を魂の内部に染み通らせる。アメリカでは宗教でさえ、啓示された教義としてより、「共通の意見」として行き渡っている。
 この平等のなかで人はものを考えなくなってしまう。これは、平等が促進されることで精神的自由の火が消え、かつて王や階級が押し付けていた拘束をすべて断ち切った人間精神が、今度は最大多数の「一般意思」に進んで自分を縛り付けることになることを意味する。
 この種の専制は、少数派を積極的に迫害するのではなく、抵抗しようとする内なる意志をくじく。なぜなら、多数に同調しないための原理をくみ出す適切な源泉などないからであり、数に左右されない正しさ(権利)があるという感覚が失われるからだ。人を脅かすものは、多数の力ではなく多数がとる正義というその姿である。(アラン・ブルーム アメリカンマインドの終焉 p275)
 p42
 アメリカの人々が一般概念を無批判に受け入れるのは、彼らにほとんど暇がなく、個別事例の検討にかける時間を省いてくれるからである。彼らは学問芸術の一般概念は、他人が示すものを何でも進んで受け入れるだろう。しかし商売に関係する観念は詳細な検討なしには受け入れないであろう。
 p46-49
 アメリカ人の宗教はたとえ来世において人を救わないとしても、少なくとも現世における人間の幸福と栄光に大いに役立つことは認めねばならない。
 ムハンマドは宗教的教義のみならず政治の格率、民事・刑事の法律、科学の理論までコーランの中に書きとどめた。ところが福音書は人間と神の、また人間相互の一般的諸関係しか語っていない。その範囲を超えるところでは、何を信ぜよとも命じない。前者が科学とデモクラシーの時代に長く支配的な力を振えないのに対して、後者はあらゆる世紀に栄えるに違いない。
 p50
 キリスト教が地上に現れたとき、人類の大部分はローマ皇帝の下に一個の巨大な群れとして統合されていた。人びとは互いに大いに異なっていたが、誰もが同じローマ法に服していた。そして誰もが王者に比べればあまりに小さかったから、誰もがみな平等に見えた。キリスト教がいかに容易にかつ急激に浸透することになったかは、この状態から説明される。
 p94
 あらゆる階級が混じり合うときには、誰もが現実の自分と違う外見を装うことができると思い、立派に見せようと精魂を傾ける。それはデモクラシーとは関係のない、人間の心にあまりにも自然な感情に過ぎない。美徳を装う偽善はいつの時代にもあるが、贅を装う虚飾はデモクラシーに特有のものである。
 p96
 ラファエロが今日の画家のように人間の身体の細かい仕組みについて深く研究したとは思えない。彼は自然を超えるつもりでいたからである。これに対してダヴィッドたちは絵描きであると同時に優れた解剖学者であった。彼らは目の前のモデルを見事に再現したが、それを超えて何かを思い描くことはめったになかった。
 p125
 民主的な言語には抽象語があふれており、それら抽象語は思考を拡大し、これに覆いをかける。表現は手短かになるが、観念はよりあいまいになる。民主的国民は言語に関しては、苦心するより不明瞭のほうを好むのである。
 p161
 凡庸な議員でも、選挙民が輪をかけて凡庸であれば、議員の凡庸さの度合いは減る。そうした選挙民は彼らの代表に多くのものを期待し、立法府における選挙区の保護者を見る。自分たちの法定代理人とみなすといっても過言でない。指導者のレベルは選挙民のレベルを正確に反映する。
 p175
 「個人主義」は新しい思想が生んだ最近の言葉である。われわれの父祖は利己主義しか知らなかった。
 p205
 ある結社が禁止され、他の結社が許されるとき、前者と後者の区別は難しい。国家が市民的結社には活動に自由を与え、政治的結社は抑圧しようとするとき、国家は(騒乱という)一つの害悪を避けることによって(地位、年齢、精神を問わない市民生活の活性化という)より効き目のある治療薬を断っていることに気づいていない。
 p214
 チャリティという考え方は、将来の得という個人の利益に訴えながら現在の個人の利益を克服し、名声という情念をかきたてる刺激を利用して金銭への情念を制御する。
 それだけで人を有徳にはできないが、規律を守って節度があり、穏健且つ用意周到で自己抑制に富む市民を大量に形成する。例えばタイガー・ウッズ財団。若干の個人を考えれば、この説は人倫を低下させるが、種全体をとってみれば、向上させる。
 p236
 境遇の平等は市民それぞれに将来への大きな期待を抱かせるが、その同じ平等がすべての市民を個人レベルでは無力にする。欲望を拡大させながら、あらゆる面で彼らに力の限界を思い知らせる。人々がほとんど相似たものとなって同じ道を通るとき、群衆からひとり抜きん出ることはむずかしい。
 仮に絶対的で完全な平等に達したとしても、なお知力の不平等は残る。これは直接神に由来するだけに、多数者の作る法規制は及びえない。宗教的禁忌から、アメリカに自殺者は少ないが、精神異常者はどこよりもあふれている。