アクセス数:アクセスカウンター

井筒俊彦 「イスラーム思想史」 4

 無気力な大衆の教化をあきらめ、同時に、不徹底な聖典解釈によって大衆をまどわす神学者を傲然と見下すアヴェロイス。12世紀の彼にできなかったのは多分、井筒俊彦氏が行なった次のようなことだけだった。
 現代の物理学・分子生物学・人類学・心理学等を動員し、普遍的知性を、A.意識のゼロ・ポイント領域 B.「無極而太極」の「太極」的側面である無意識領域 C.集団的無意識あるいは文化的無意識の領域に当たる元型成立の場所としての言語アラヤ識領域 D.経験的事物に象徴的意義を賦与し、存在世界を一つの象徴的世界として体験させる象徴的構造化領域・・・ などに分類し、それぞれの機能を明らかにすること。
 アヴェロイスは、個人として死に、種としてのみ永遠であることが「宇宙によるわれわれの支えられかた」であるとは、確信的には言えなかった。世界にまだそれだけの知識体系がなく、万巻の書は記されていなかった。
 しかしながら、アヴェロイスの「我と彼の合一」の思弁の天才性やその人柄の「近代性」と、東洋人がその思弁になじめるかどうかは別問題である。東洋人にとっては、「原罪」は不可解であり、無分節のゼロポイントを一歩抜け出たところに生じる元型成立の場以外に「本質」もないから、人を審判する根拠をもつ超越者を根底的には理解できない。人格神はセム人の元型イマージュなのであり、東洋人にとっての元型は、全ての属性のかなたにある、神であるという述語すら成り立たない 「無属性ブラフマン」 以外にない。
 ところで、言語アラヤ識領域といい、象徴的構造化領域といっても、解剖学的にそのような領域が脳内に独立してあるわけでは、もちろんない。それらは「領域」というよりも、たとえば言語アラヤ識内で或る元型イマージュが成立する際の、ネットワーク結合の「地域・民族・文化範型に規制されている水脈」といったほうが近い。
 例えば、よく言われることだが、日本人が「蓮」と聞いて浮かべるイマージュは、英語圏の人々がLotusと聞いて浮かべるイマージュとはまったく異なる。Lotusから「仏」が連想されることはなく、ただの植物の「ハス」である(ギリシャ神話の忘憂樹はいまは除く)。これに対して日本の「蓮」は確かに「仏」に結びついており、「浄土」の象徴である。
 しかも日本人とイギリス人で、それらは脳内の違う場所で想起されるのではなく、どのネットワークが別のどのネットワークと結合するかが決定的であって、ネットワークの組合わせによって同じ植物が「仏の花」になったり「Lotus」になったりするだけである。このネットワーク結合のとき、民族としての同質な教育馴化によるベクトルが強く作用することは言うまでもない。