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ジョン・ダワー 「昭和」 2

 p55
 日本でも原爆は研究されていた。しかしそれはいかんともしがたいほど細分化され、人員の配分も不適切で、研究者は個人レベルでの疑心と葛藤に苛まれていた。また軍や国家の上層部でも陸軍と海軍、陸軍参謀本部前線指揮官、海軍の指揮系統間、統制派と皇道派の内部対立は深刻だった。日本固有とされるの「合意」社会、一億一心、全体主義などはステレオタイプのレッテルに過ぎない。
 p80
 『海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ』 大伴家持長歌の一節をとった「海行かば」は巧みなプロパガンダである。大伴・佐伯一党の戦闘歌に描かれた古代の理想に過ぎないものを、千五百年後の近代的な動員に役立つ方法としてみごとに呼び覚ましたからである。古代上級貴族の出世願望をあらわしたにだけの詩歌に、すぐれた煽動家は、集団的自己犠牲こそ民族に深く浸透した永続的伝統であるかのような響きを与えたのだった。
 近代戦争で死ぬことを強いられる民衆一般が天皇の存在を知ったのはたかだか江戸末期のことである。数十行の長歌から都合のよい一節だけを切り取ったプロパガンダの作為に都市労働者と農民が気づくはずはなかった。
 p134
 一九四七年、すでに「象徴」の地位にあった天皇が側近を通じて、必要ならある種の単独講和的な取り決め受け入れてもよいという意思をアメリカに伝えている。この極秘の提案にはアメリカの主要な軍事拠点としての沖縄の開発が示唆されている。占領の早期終結と引き換えに沖縄の主権を売り渡すハラだったことを明るみに出すもので、昔から二等市民の扱いを受けてきた沖縄を取引材料にするものだった。
 p159−160
 吉田茂は自宅の庭に、自身が娘婿である明治の独裁者大久保利通の神社を建立し、新聞記者に水をかけ、左翼を無法者、中立を説く政治学南原繁曲学阿世の徒とののしり、天皇の面前で頭をたれ自分を「臣・茂」と呼び、如才なくマッカーサーの妻に花や果物を贈っている。これほどに比類なく抜け目ない男がマッカーサーには怠惰で政治には向かないと評された。
 p165−6
 文民守旧派たる吉田にとり天皇は具体性を持った家父長の理想形であった。だから一九三○年代からの侵略の歴史は、それまでの健全な国威発展途上におきた軍国主義者の「逸脱にすぎない」と片付け、初期占領軍の戦前の社会構造に対する批判的分析にはほとんどすべて反対していた。アメリカという勝者の要求だったから、吉田は個人的には不愉快だった改革を大久保利通の娘婿らしく「実利」的に受け入れただけである。このことがマッカーサーには怠惰・無能に映った。
 文民守旧派の最優先課題は天皇の戦犯回避であり、このために戦争放棄や人権保障という「比較的小さな」変革は進んで受け入れたのである。そして彼らは「象徴天皇」という芸術的で超然的な地位こそが天皇を、吉田の最も嫌った軍国主義者など現実の権力の磁場から切り離すことができ、将来の政治的脅威からも隔離できると考えた。
 一九五二年、新憲法公布五年後、吉田が天皇公式訪問のとき「臣・茂」と自署したことは、日本がいまだに君主国であり副次的に民主国であることを示唆したことになる。同時にそれは民主化という占領の課題を鼻で笑ったことになる。つねづね吉田は、国政を職業として行うには世論一般、特に政党は不快な障碍だと明言していた。(のちに新聞記者から「臣・茂」と自署したことを訊かれ「あれは総理大臣の『臣』だ」とジョークを飛ばしたらしい。)
 p166−179
 アカ嫌いの吉田は、一九二七年には活動家に治安維持法を乱用する田中義一内閣のポストを懇請している。戦後サンフランシスコ講和会議では中国の共産主義者と取引するつもりはないと演説しかけ、アメリカ側をあわてさせた。国務長官ダレスが北京を選ぶなと迫ったわけではないにもかかわらず、吉田は圧力があったようにわざと見せかけたほどの役者だった。