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ハナ・アーレント 「イェルサレムのアイヒマン」 5

 p121
 古代ローマ以来、ヨーロッパ史を通して、ユダヤ人は悲惨においても栄光においてもヨーロッパ国民共同体に属していた。過去五世紀は栄光の機会もきわめて多く、ユダヤ人なきヨーロッパは西欧や中欧では想像が難しかった。
 ヨーロッパ諸国民の形成と国民国家の発生を知っていれば驚くべきことではないが、反ユダヤ主義の様相は国の数と同じだけ多様だった。ドイツでの過激な反ユダヤ主義を高く評価したのは、ナチが「人間以下」とみなしてきたウクライナバルト三国だけだった。ナチが真の同胞とみなしてきたスカンジナビア国民は、ヒトラーが期待したユダヤ人への敵意を著しく欠いていた。(ヨーロッパユダヤ史を学ぼうとしないアイヒマンのような平凡な人間は、東欧でも西ロシアでも、人口統計上はいまだに圧倒的多数を占めている。アーレントが「アイヒマンの陳腐な犯罪」と呼ぶのは、圧倒的多数の誰もがいつの時代にも冒しうる犯罪という意味である。)
 p129
 (一方、典型的国民国家である)フランスでは、ヴィシーでさえも、排除を望んだのは外国系もしくは無国籍ユダヤ人だけだった。反ユダヤ主義者でさえフランス系ユダヤ人の移送を頑強に拒んだ。ドイツ国内では、敗軍のフランス人捕虜と一緒にいたユダヤ人捕虜すら、フランス系ユダヤ人ということで移送されなかった。ゲシュタポやSSでも「進んだ文化国家フランス」にはコンプレックスがあったのだ。
 p134−136
 ドイツがデンマークに対しユダヤ系識別バッジを採用の件を持ち出したとき、デンマーク人はまず国王がそれをつけるだろうと答えてナチ高官をあわてさせた。国王政府に働くデンマークの官吏は、自分たちはただちに転職するだろうとドイツ人に注意した。ドイツがロシア攻撃に失敗すると、デンマークの造船所ではドイツの船を修理するのを拒み、ストライキに入り始めた。
 デンマークユダヤ人首脳は、他の国のユダヤ人首脳とはまったく違い、ドイツ警察の戸別捜索が始まることを一般ユダヤ人に事前に知らせた。また、デンマーク人の各層は国王から一般市民まで、ユダヤ人受け入れを拒まず、スウェーデンへの脱出に際しては富裕な市民がその費用を拠出した。
 この住民の公然たる抵抗に初めて出合って、厳しさというナチの理想は「どんな犠牲を払ってでも大勢に順応したいという有無を言わさぬ自己欺瞞の神話」であったことがさらけ出された。(アーレント:このデンマークの物語は非暴力行動と抵抗についての政治学の必須文献である。)
 p139
 イタリアには五万ものユダヤ人社会があり、歴史はローマ時代までさかのぼるものだった。ユダヤ人社会はイタリアでも、他の国と同様に問題を起こしてきた。しかしデンマークでは真に政治的な意識の結果として抵抗が行われたのに対し、イタリアでは古い文明国民に行き渡った無意識的な人間味の所産として、ドイツに対する「悪ふざけのような」サボタージュがおこなわれた。イタリアでもユダヤ人は収容所に入れられたが、そこは外より安全な避難所だとも言えた。北へ送られ殺されたのは全ユダヤ人の十%をはるかに下回っている。
 p141
 バルト海からアドリア海までの東欧は、ロシア、オーストリアハンガリー、トルコの各帝国領の(複雑な思惑の混じったヴェルサイユ条約による)継承国家である。しかしその政治構造が、条約参加国がモデルとした西欧型国民国家(一民族=一国民)に似ているものは、冷戦後のつい最近まで、一国もない。第二次大戦後の東欧、バルカン諸国では、ほんのわずかだけ人口の多い民族の政府に国内の他の民族が激しい敵意を抱き続けてきた。(そしてどの国でも少数だったユダヤ人はどの国でも一人前の民族とはみなされず、第一に移送され片付けられるのは決まって彼らだった。)
 p142
 東欧のユダヤ人は文化的自治は望んでいたが、政治的自治は求めていないことが、西欧の教養あるユダヤ人を驚かせた。しかも、ばらばらだった西欧に比べて彼らはある程度固まって暮らしており、西欧のばらばらだが高度に同化したユダヤ人に比べて、敵からも味方からも彼らは自分とは異なった民族「集団」とみられていた。その結果東欧では、事実上支配階級に属する上層中産階級という、層としては薄いが通婚や金や洗礼により同化の程度が進んだユダヤ人しか生き残れなかった。
 p143
 クロアチアでは生き残ったユダヤ人は五%に過ぎない。全ユダヤ人口中の金持ちで高度に同化したものの割合と、これは同じ数字である。
 p146
 ブルガリアは別だった。たった一人のブルガリアユダヤ人も移送も殺害もされていない。数ヶ月前にデンマークで起きたのと同じ事態――当地での議会・民衆・宗教指導者の抵抗によってドイツ当局者が自信を失ってしまう――が起きていた。
 p148
 ヨーロッパで戦前から最も反ユダヤ人的だったルーマニアは、また違った。大規模なポグロムが頻繁に発生し、SSがユダヤ人を純然たる屠殺から救い出すこともしばしばだった。ルーマニア軍は五千人人のユダヤ人を列車で何日も地方を走り回らせて窒息死させ、死体をユダヤ人の肉屋の店頭に並べたりした。ルーマニア強制収容所ルーマニア人自身によって作られ運営されたが、そこでの残虐さはドイツで見たどんなものより手の込んだ惨たらしいものだった。