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東 浩紀 「一般意志2.0」(講談社) 5

 p212
 政治思想はいままで、あまりにも理性を信じすぎてきた。実際には人間の能力には限界がある。人間は理性だけでは社会の複雑さに対応できない。だとすれば、社会の基盤は、個人の理性よりも、むしろ「群れる動物」としての人性そのものに求めたほうがいいのではないか。
 一般意志2.0の構想はルソーの(正しく理解されることのなかった)一般意志思想のうえに作られた。そしてルソーは、理性を信じず、むしろ身体や感情の盲目的な力をこそ評価した思想家だった。ホッブズやジョン・ロックとは異なり、人々が理性の力で自然状態を脱し、社会を形成したとは考えなかった。
 いま人間が社会を作り、他者とともに生きているのはなぜか。ルソーは次のように明確に記している。「人類の自己保存が、人々の理性の行為のみに依存するのであれば、ずっと以前に人類はもう存在しなくなっていたであろう。人類は群れる動物であるからこそ、社会を作り、いままで歴史を生き抜いてきたのだ。」
 p214
 わたしたちはいまや、国家と社会と個人の関係を捉える、まったく新しい枠組を必要としている。近代の社会思想では一般に、成員の情緒的な一体感は共同体を閉じてしまうものであって、論理的な思考こそがその限界を超えて普遍的な社会を作り出すと説かれることが多かった。
 しかしそれは必ずしも真実ではない。人間は論理で世界全体を捉えられるほどには賢くない。逆に、論理こそが共同体を閉じることがある。だからわたしたちは、その外部を捉える別の原理を必要としている。熟議が閉じる島宇宙の外部に「欲望と共感の海」が拡がり、ネットワークと動物性を介してランダムな感情があちこちで発火している、そのようなモデルである。
 わたしたちは、意識的な言葉の力、議論の力を過信することをやめなくてはならない。いくら言葉を尽くしても決して説得できない相手は、この世界にじつに膨大に存在する。そしてわたしたちは、彼らともまた共存していかなければならないのだ。
 p236・7
 コンピュータとネットワークがあらゆる環境に埋め込まれ、ソーシャルメディアが社会を覆い、統治制度の透明化と可視化が極限まで進められ、人々がイデオロギーによってではなく、むしろ生存と消費の欲望によってのみ結びつき、国家を構成するようになった世界。神や超越的なるものが死に、カール・シュミットが定義する(独裁者による全体主義の台頭を許すような)意味での政治的なるものが死に、思想と宗教と文化がすべて私的な趣味と欲望に還元され、徹底して世俗的で功利主義的な価値観だけが社会を支えるようになった、ある意味で退屈な世界。
 これからの二十一世紀。どこかの時点で、もしそのような世界が実現するとしたら、わたしたちはどのような生を営んでいるのだろうか。
 五十年後か百年後。そこにも国家は存在するだろう。ほとんどの人々が、特定の国家に属し、国家の庇護のもとに生活を営む状況は変わっていないだろう。
 しかしそこでは、多くの国家が、資本や文化の管理からは手を引き、「最小国家」と呼ばれる、暴力を管理し治安を維持する装置としてのみ存続しているはずだ。
 国家の役割は、国の内外の安全保障の確保、つまり外交と防衛と警察の機能に限定されるだろう。それ以外の機能、教育や医療、社会保障、公共事業などはすべて国家外の組織が担うようになるだろう。そのような未来が想定されるのは、五十年後か百年後の情報化とグローバル化の必然の結果と思われるからである。
 市場はすでに国家が制御できるものではなくなっている。環境問題もまた国家単位での処理を超えている。どの国でも教育の選択肢は多様化せざるをえないし、租税や社会保険の諸制度も互換性を高めざるをえない。国境を越える労働者が増えれば、二十世紀後半までの労働運動の国ごと・地域ごとの高揚はもはやありうべくもない。そしてあらためて指摘するまでもなく、ネットワークの存在は、メジャーかマイナーかに関係なく、世界中の文化をますます統合し、地理的な制約から解き放つ。
 あと半世紀もすれば、日本文化や中国文化、イスラム文化といった呼称は、もはや伝統文化にしか用いられなくなっていることだろう。東京の住民も上海の住民もカイロの住民も、ニューヨークやパリの住民と同じ本を読み、同じ音楽を聴き、同じブランドの服に身を包み、同じネットサービスを使う。そのような世界で、国家にできることは必然的に限られている。