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黒岩比佐子 「パンとペン 堺利彦・売文社の闘い」(講談社)1

 一九一○年十二月、いわゆる大逆事件が起きた。幸徳秋水ら二十四人が検挙され、審理は秘密法廷の一審だけで終了し、翌月二十四日に幸徳秋水ら十一人、一人管野スガだけが翌朝絞首刑になった。幸徳秋水、管野スガら四人は当時の法律に照らせば有罪だったが、残り八人は冤罪だった。
 堺利彦は秋水の盟友だったにもかかわらず連座と冤罪を免れている。堺はその七年前、一九○三年に秋水といっしょに平民社を創立し、『平民新聞』を発行して初期の社会主義運動を続けていたのだが、たまたま二年前に「赤旗事件」という別の罪で入獄していたという、皮肉としか言いようのない「幸運」が利彦の命を救ってくれた。
 この本は、幸徳秋水らの処刑の直後に「売文社」という人を食ったような名前の会社を起こし、円満と狷介をあわせ持つ独特の人品によって社業を広げ、生活に困窮する多くの社会運動家を支援しつづけたその堺利彦へのオマージュである。表題「パンとペン」は「冬の時代にあって自分はわずかに恵まれたペンの力によって同志たちを支える」という意味である。

 p300
 「武士は食わねど高楊枝」であることを尊敬もし、蔑みもしていた当時の日本人の金銭感覚を、内村鑑三が『萬朝報』という当時有名だった新聞に書いている。
 「日本人は一般に商売を好んで商売を嫌うものである。すなわち自身が商売するのはよいが、他の人が、ことに彼等の師と仰ぐ人が、商売に従事するのを甚だ賤しとするのである。すなわち彼らは自身の肥える事を望んで他の人の痩せることを望むのである。百姓だとてその作った穀物や野菜を売らなければならない。なにゆえに文士がその論文を売っては悪いのか。もし牛乳配達をしながら傍らに文学に従事すればとて、それでその文学が潔白でないとは誰が言えよう。」
 p301
 斉藤緑雨が堺利彦の売文社を簡潔・的確に紹介している。
 「文壇と実世間の群れから離れず、我は売文業者なりと名乗り出て、文章一切、代作添削、新聞雑誌原稿政策、書籍編集と看板をかかげたのは堺利彦氏であった。氏は売文社を興して迫害に苦しんでいる多くの社会主義者に職を与え、その生活を保証してやったのは、権力階級に対抗する社会党の自衛方法としても頗る賢き手段であって、しかもまた自己の生活を確実ならしむるものであった。」
 p304
 売文社の「営業案内」をみると、いまの広告代理店・編集プロダクション・翻訳会社の業務を一手に引き受けている観がある。いわく、雅号の選定、商標考案、絵画展の広告文英訳、雑誌発行趣意書、雑誌原稿代作・添削、カタログ編集及び意匠、英文・独文書簡代作・添削、タイプライター清書、性欲記事英訳、特許出願文書独文和訳、裁判判決文和訳、支払い督促状代作、雑誌表紙意匠制作、新刊書広告文、夏物売出し広告意匠、商業書簡漢訳、旅行案内書編集、英文政治学教科書翻訳、国際法教科書翻訳、演説草稿起稿、学校卒業式生徒総代答辞代作、植物学仏文和訳、某氏自伝談話筆記及び編集、看護学書翻訳、欧文飾り文字作成、会社建物石版下絵・・・・等々、堺利彦とその周辺にいた人々の能力の高さに驚く。
 p200 大逆事件永井荷風「花火」

 「明治四十四年慶応義塾に通勤するころ、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通りで囚人馬車が五、六台も続いて日比谷の裁判所のほうへ走っていくのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折ほど言うに言われないいやな心持のしたことはなかった。わたしは文学者たる以上、この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュス事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者とともに何も言わなかった。わたしは自ら文学者たることについて甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。」