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養老孟司 「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)5/5

 ハイテクが変えた人間
 p214
 人工臓器を洗練していったとしよう。とことん最後に、どうなるか。おそらく、いまの健康な人間並みの機械ができあがるだろう。それなら、いまの人間ではなぜいけないのか。
 病気になる、最後に死ぬ、それが人間の欠点だ。そういうなら、壊れない、死なない機械に置き換えよう。ところで伺うが、それは一体、なんのためなのか。いったいヒトは、なんのために、なにを努力しているのか。シェリングという哲学者も言ったが、「有用性」にはいったいどんな有用性があるのか。
 p216
 大脳新皮質は、自分の中に生まれるものを、飛行機であれ、テレビであれ、すべて実現してきた。あらゆることを予測し、統御しようとする新皮質は、最終的には神を創り出すであろう。おもしろいことに、そこではじめて、新皮質は予測不能、統御不能なものに、再び出会う。神の行為は、定義により、われわれには予測不能、統御不能だからである。
 ヒトは自然の産物である。自然とは、(ヒトを内部に含むものであるから、)やはりその定義により、ヒトには予測不能、統御不能である。だから、おそらくヒトもそうであろう。(ヒトは「ハイテク」を内部に含むものであるから)ハイテク化の限界は、じつはヒトそのものに、すでにつくりつけのはずである。
 身体という禁忌
 p260
 喜怒哀楽は、大脳辺縁系に生得的に固定された明瞭で定型的な感情だから、ふつうは明確なきっかけで始まり、いったん始まれば、ともかくその「発作」が終わるまで待つしかない。それは「仕方がない」し、始まってしまえばもはや議論の余地はない。
 しかし、畏怖や不気味はこれとは違う。なんとか理性的に統御できる。そんな「気もする」のは、畏怖や不気味が新皮質と縁が深いということであろう。つまりこの「中間的」な感情は、定型的な感情でもなければ、明瞭な理性でもないという特質を持っている。畏怖や不気味をともなう「差別」問題の難しさはここから生まれる。
 p285
 情報社会とは、脳の共有を意味する。「共有される脳」というものがここまで勢いを持つとは、誰も予想しなかったであろう。情報社会にあって、いまの若い人が他人のことばかり気にするのは、「情報社会とは自他の脳を共有すること」にほかならないからである。この「共有される脳」が個人の内部で機能不全に陥ると、新興宗教が生まれ、臨死体験の流行が生まれ、ニューサイエンスが生まれる。
 「共有される脳」とは、ひとことで言えば全世界の表層を覆い尽くすまでになったデータベース社会のことである。それはほとんど無限の相互循環参照社会だから、若い人達が自分の「個性」をいつまでもフレッシュに保つことは、原理的に不可能である。なぜなら、若い個人が「個性的」であればあるほど、圧倒的多数に瞬時に参照され、コピーされてたちまち凡庸化してしまうという背理を持っているからである。