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内田 樹 「街場の大学論」(角川文庫)1/2

 大学統合・淘汰についてのいい加減な新聞論説
 p14・21
 大学の統合・淘汰について2007年に毎日新聞が以下の社説を載せていた。
 「こんな時代になったのは、少子化が進んだためだけではないのだ。大学教育の『質の低下』という積年の、本質的な問題がある。(中略)経済成長や基準緩和の中で増え続けた大学(2006年で国立87校、公立89校、私立568校)は、今、適当な校数へのスリム化が課題なのではなく、真に高等教育の機関として機能しているか、内実を問われているのだ。この根本的な議論を避け、問題を先送りにし、大学の数を減らすだけなら、大学教育そのものが無用とされる時代を招来しかねない。」
 ご高説は承ったが、この記事はだれに向かって書いているのかがよく分からない。無用とされる日が近い大学の経営者か、文科省・高等教育局の人間か、中教審か、大学教育に向かない高校生を持つ親御さんか。
 私・内田は、はなはだ失礼だとは思いつつ、このようなあて先不明の記事を書く新聞の『質の低下』を証明するために、さきほどの「大学」を「新聞」に置き換えて、そのまま毎日新聞論説委員にお返ししたいと思う。
 「こんな時代になったのは、少子化が進んだためだけではないのだ。新聞の『質の低下』という積年の、本質的な問題がある。(中略)経済成長や基準緩和の中で増え続けた新聞は、今、適当な紙数へのスリム化が課題なのではなく、真にメディアの機関として機能しているか、内実を問われているのだ。この根本的な議論を避け、問題を先送りにし、新聞の数を減らすだけなら、新聞そのものが無用とされる時代を招来しかねない。」
 いかがだろうか。どんな論件にも妥当する推論形式は「普遍的真理」を語っていると見なすべきか、それとも「具体的なことは何一つ語っていない」と見なすべきか。読者に馬鹿にされるこのような記事の書き方は、いい加減やめたらどうか。
 新聞は、「根本的な議論」をもっと深いところから始めるべきではなかろうか。たとえば受験シーズンの直前にソニー任天堂は新型ゲーム機を発売する。年末年始のテレビ局は子供の勉強を邪魔するためとしか思えない歌舞音曲で狂いまくる。教育の質の低下というが、私が新聞に寄稿する記事はしばしば「こんなむずかしい言葉を使っては困ります」とつき返される。読者に向かって「わからない言葉があったら辞書を引きたまえ」と言い切れる新聞は新聞はいま存在しない。
 学ぶこと自体がもたらす快楽
 p42
 わたしは大学院生のとき、「こうやってばりばり勉強していれば、いつかきっと『いいこと』がある」という未来予測に支えられていたわけではなかった。「こうやってばりばり勉強できるという『いいこと』が経験できるのは今だけかもしれない」という未来予測の不透明性ゆえに勉強していた。
 p333
 教育の基本は「自学自習」である。大学ができるのは「自学自習するきっかけ」を提供することだけある。自分をより知性的たらしめようというという決意以外に、その人を強制的に知性的にすることはできない。大学で教えるのは、自分自身を上空から鳥瞰できるような視座に立つ力、それだけで十分だろうとわたしは思う。