アクセス数:アクセスカウンター

白川 静 「孔子伝」(中公文庫)1/2

 約四十五年前、激しい学園紛争のあった立命館大学の教授だった著者が、学生との団交のあった日も夜中まで書き進め、紛争が終焉を迎えた一九七二年に刊行された本である。中国、春秋戦国時代という、わが国の内乱時代とは百倍もスケールを違える動乱時代を生きた孔子の、およそ通説的な「聖人」とはかけ離れた傑人ぶりが描かれている。
 著者は名だたる博覧強記の人である。だから強い調子の文言を排し、きわめて抑制された文体を採用しながら、理路はおのずと果断であり、孔子を一○○年前に生きた人のように甦らせる。この本の背後には半世紀前、執筆当時の著者の周囲を文字通り取り囲んでいた 「怒れる若者たち」 の気魄が満ちている。「解説」 によれば、本書中の孔子の高弟・子路の激しい気性、その武闘の態度、師への抗議などの描写は、当時の新左翼の学生をモデルにしたという。

 よく知られるように子路は、思想家としては若き俊英・顔回に遠く及ばなかったが、熱血漢であり、行動の人だった。孔門中、随一の政治家であり、理想主義者に終わった孔子を超え、魯国名家の宰相となっていくつもの政治策謀を指揮している。この畏敬すべき高弟に対して孔子は、 「おまえは頭がよくないし乱暴すぎる」 と手厳しいが、 「私が追われればいかだに乗せてでも逃がしてくれる男だ」 と心中深いところで信頼を寄せている。
 いっぽう 「一を聞いて十を知る」 顔回は、孔子にとって恐るべき学生であった。顔回だけが孔子の言葉をすべて理解することができた。その顔回が、長い亡命の後孔子とともに魯に帰るとまもなく死んでしまった。弔いのとき孔子は思わず身を震わせ、慟哭して泣き伏した。肉親者でなければ弔喪のとき泣いてははならぬというのが儒家の定めである。老師がこの掟を破っては困る。従者がそのことを注意すると 「わが衣鉢を継ぐべき顔回のために泣かずして、誰のために泣くのだ」 となお慟哭を続けた。(p260)
 孔子は、この年少の学生を悼むために、みずから定めた礼を破って悔いなかった。顔回孔子にとって、光であったのかもしれない。いま、その光が失われた。孔子の未来が失われたのである。前後を忘れて、会衆の面前で慟哭したのは当然であった。礼の形式などは、もとより問題ではなかった。
 白川静は、教条的儒者として体制の確立・維持に何よりも力点を置いた孟子よりも、孟子と同時代にラディカルな孔子批判を続けた荘子に共感を寄せている。白川静は執筆中に研究室付近をうろつきまわる新左翼の学生たちに、体制という、どうにもならないノモス的世界を破ろうとするものの根本的新しさを見たのだろう。『文庫版あとがき』で白川自身が言っている。 「孔子は最も狂者を愛した人である。狂者は<進んで取る人>であり<直なる人>である。邪悪なるものと闘うためには、一種の異常さを必要とするのであり、狂気こそが変革の原動力でありうるのだ。」
 p26
 孔子の世系についての『史記』などに記す物語は、すべて虚構である。孔子はおそらく、名もない巫女の子として生まれ、早く孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。そしてそのことが、人間について初めて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。
 あのナザレびとのように、神は好んでそういう子をえらぶ。孔子はえらばれた人であった。それゆえ世に現れるまでは、(あのナザレびとのように)誰もその前半生を知らないのが当然である。神はみずからを託したものに、深い苦しみと悩みを与えて、それを自覚させようとする。それを自覚しえたものが聖者となるのだ。
 思想は富貴の身分から生まれるものではない。『左伝』の荘公十年に、「肉食のものは鄙し」という語がある。搾取と支配の生活は、あらゆる退廃をもたらすに過ぎない。貧賤こそ、偉大な精神を生む土壌であった。孔子はおそらく巫祝者のなかに身を置いて、お供えごとの「俎豆」の遊びなどをして育ったのであろう。そして長じては、諸処の喪礼などに雇われて、葬祝のことなどを覚えていったものと思われる。葬儀に関する孔子の知識の該博さには、驚嘆すべきものがある。