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村上春樹 「羊をめぐる冒険」 (講談社文庫)1/2

 羊をめぐる冒険』は、村上春樹が今日的な「世界作家」としての評価を獲得する足がかりを得た記念碑的作品らしい。この小説以降、村上作品は海外でも大部数が売れ始めるのだが、村上春樹はいまも、『羊・・・』以前の作品には翻訳許可を与えていない。それは、『羊をめぐる冒険』によって初めて、自分のそれまでの作品にあった「内国性」を超えることができたことを村上自身がよく知っているからである・・・・・そういうことを内田樹がどこかで書いていた。
 僕たちが小説を読むのは、その中で作者だけが物語ることのできる 「世界との対立のしかた」 を聞きたいからである。僕たちが小学生時代までに、父や母にあれほど昔話や童話を読んでくれることをせがんだのは、主人公の人間や動物たちと世界との対立が、子供には聞いたことも見たこともない形で語られていたからである。その驚くような話は、子供にとってはどこに起きてもいいものだった。アラスカの川べりでの漁師の話でもよかったし、ロンドンの裏通りで起きた貧しい少女の悲劇でもよかった。出てくるのは日本人である必要はまったくなかった。(もちろんそんな、日本人でなくてもいいというようなことは、子供は意識の下でしか知らなかったけれど。)
 「内国性」とはこの場合、日本人はどんな考え方をする人たちかということが作品の底のほうにいつも流れている、という意味である。日本文学の研究者は、当然のことだがそういうことに興味をもって、たとえば谷崎潤一郎永井荷風藤沢周平司馬遼太郎を読むだろう。村上春樹が『羊をめぐる冒険』以前の作品に翻訳許可を与えていないというのは、「日本人とはなにものなのか」を物語ることが、彼にとってはとうの昔に二義的なテーマでしかなくなっているということである。
 ノーベル賞の受賞予告賞」とも言われるエルサレム賞を受賞したとき、村上は「卵と壁」に」ついて有名なスピーチをした。パレスチナを苛烈に抑え込むイスラエル政府首脳が列席する前で、「強大な壁に向かって人民が投げつける卵の意味」を問うた。「もし固くて高い壁と、そこに叩き付けられている卵があったら、私は常に卵の側に立つ。いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立つ」と。
 この『羊をめぐる冒険』も、そうした、あらゆる希望をはねつけ続ける「世界の高い壁」とそれに向かって卵を投げ続ける主人公「僕」の冒険の物語である。「僕」の相手は高い壁をめぐらした「世界」であり、その「世界」は「僕」らに対して何の関心も示していないのだから、お互いのやり取りはトンチンカンで、ほとんどコミュニケーションの形をなさない。『羊をめぐる冒険』は、確かなプロットをたどりながら荒唐無稽な物語をえんえんと繰り広げ、読者に足もとの「世界の不確かさ」を覗き込ませてくれる。
 赤ん坊が世界の壁の前に生まれ出ても、赤ん坊の泣き声は世界に理解されないし、世界の命令は赤ん坊にわかるはずがない。「僕」の冒険も、そのようなものである。しかしながら唯一、赤ん坊の味方である母親が、肌を撫でつつけ、ミルクを飲ませつづけ、初めは赤ん坊に理解不能な言葉を語り続けるうちに、赤ん坊は、その母の言葉が「自分あて」だと、「人類学的直観」として気付くようになる。そのようにして赤ん坊が、言葉=コミュニケーションという「奇蹟」を行っていくように、「僕」は、「世界」の無意味な高い壁に向かって、コミュニケーションという「冒険」を試みようとする。

 この『羊をめぐる冒険』には、それ以後の村上作品に登場する主要なキャラクターが数多く登場している。以下、そのキャラクターたちの、高い壁に梯子をかけるには大して役に立たないおしゃべりをいくつか。
 上巻 p92 
 「僕」と「相棒」の会話・・・広告は誠実か、について・・・「僕」は『1Q84』の天呉である
 相棒  「先週君は、つまりわれわれは、マーガリンの広告コピーを作った。実際のところ、悪くない広告だった。評判も良かった。でも君は、この何年か、マーガリンを食べたことなんてあるか?」
 僕  「ないよ。マーガリンは嫌いなんだ」
 相棒  「俺もないよ。結局そういうことさ。少なくと昔のおれたちはきちんと自信の持てる仕事をして、それが誇りでもあったんだ。それが今はない。実体のない言葉をただまき散らしているだけさ」
 僕  「マーガリンは健康にいいよ。コレステロールも少ない。味だって悪くない。安いし、日持ちがする」
 相棒  「じゃあ、自分で食べろよ」
 僕はソファに沈み込んで、ゆっくりと手足を伸ばしながら言った。 「我々がマーガリンを食べても食べなくても、結局は同じことさ。確かに実体のない言葉をまき散らしている。しかし実体のある言葉がどこにある? 誠実な呼吸や誠実な小便がどこにもないように、誠実な仕事なんてどこにある?」
 相棒  「君は昔はもっとナイーブだったぜ」
 「そうかもしれない」と言って、僕は灰皿の中でたばこをもみ消した。「きっとどこかにナイーブな街があって、そこではナイーブな肉屋がナイーブなロースハムを切っているんだ。このごろ昼間から飲んでいる君のウィスキーはきっとすごくナイーブな味がするんだろう・・・・・、すまん、ケンカを売るつもりじゃないよ」