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木村敏 「時間と自己」(中公新書)1/2

 木村敏は、ウィキペディアによれば、中井久夫、安永浩らとともに、日本の精神病理学研究の第二世代を代表する人である。「ミュンヘン留学中に書かれた処女論文『離人症現象学』によって木村の仕事はまずヨーロッパで注目を浴びた。その後「あいだ」を軸にした独自の自己論を展開して国内外に大きな影響を与えてきたが、近年は環境に相即する生命論へとその研究の射程をのばしている」と紹介されている。
 本書では個人によって微妙に異なる心理的時間感覚の問題を取り上げている。その人が統合失調症親和的であるか、うつ病親和的であるか、癲癇気質親和的であるかによって、それぞれが「健常者」とはかなり異なる時間感覚を持っているのだが、その異なりかたは、三者でずいぶん違うものらしい。

 p22-3
 古池や 蛙飛び込む 水の音
 この誰にでもよく知られた芭蕉の俳句は、形の上では、いくつかの「もの」についての描写以上のなにものも含んでいない。文章構造の上では「古い池に蛙が飛び込んだ音」とほとんど違わない。事実、この句をもし外国語に直訳してみたら、何の情感もない「もの」の世界の報告文になってしまうことだろう。
 しかし日本人ならだれでも、この句には一つの「こと」が隠されているのを感じ取る。この「こと」は、蛙の飛び込んだ古い池の水の音のあたりで生じている「こと」かもしれないし、芭蕉の心の中で生じている「こと」かもしれない。あるいは、音と芭蕉とのあいだに生じている「こと」だというのがいちばん正しいかもしれない。とにかく、何らかの「もの」と共生する何らかの「こと」が、芭蕉の身辺にただよった。そしてその「こと」を「ことば」にして芭蕉は「古池や 蛙飛び込む 水の音」と詠んだのである。
 古池、蛙、水音、そういった「もの」的なイメージの綜合が、その背後にある純粋な「こと」の世界をはっきりと感じ取らせてくれる。俳句の音声と重なった純粋な「こと」の世界の沈黙の声を、例えば外国語などにそのまま置き換えることは不可能だろう。
 p27
 離人症患者ではこの「こと」の世界の感覚が欠落する。健康時の生活において世界の「もの」的な知覚を背後から豊かに支えていた「こと」的な感覚が一挙に消失して、世界はその表情を失ってしまう。離人症患者は異口同音に「自分ということがわからない」と訴えるけれども、このことは、われわれが「自分」とか「自己」とか呼んでいるものが実は「もの」ではなくて、自分という「こと」によって成り立っているのだと言うことをはっきり物語っている。
 p30
 時間が連続的に流れるというわれわれの体験は、「いま」の豊かな広がりが、「いまから」と「いままで」の両方向への極性を持ちながら、われわれのもとにとどまっているということから生まれる。離人症患者においては、このような未来と過去の「あいだ」としての「いま」が成立しない。患者にあっては「時と時のあいだがなくなってしまった」のであり、「いま」は「もの」的な刹那点の非連続の継起に過ぎない。てんでんばらばらでつながりのない無数の「いま」が無茶苦茶に出てくるのである。
 p53
 健康な人間においては、「いま」は豊かな広がりとして体験され、決して未来とかこのあいだに非連続な切れ目を感じさせない。それは、「いま」が「いま」として意識されるかぎりではひとつの「もの」でありながら、その背後に広がる「こと」の世界から切り離されていないからである。「もの」が「こと」から遊離している離人症の状態においては、「いま」は「もの」としてすらその厚みと奥行きを失い、無数の断片に分解されて、時間の動きが消滅してしまう。
 p54
 離人症の体験においては、「いま」が「以前」と「以後」への広がりを失うのにともなって、そのような「いま」は「私自身」であることもやめてしまう。「いま」が「いま」として成立しないところでは「私」も「私」として成り立たない。そしてそのような「私」の不成立、「いま」の不成立は、時間というものを――あるいはむしろ時間という「こと」を――根本から不可能にしてしまう。
 p79
 考えてみれば、私とはいかなる仕方であれ「もの」とみなすことはできない。私がいまここにいるという「こと」、字を書いているという「こと」、窓の外の景色を見ているという「こと」、そしてそういったことを意識しているという「こと」だけが私という「こと」にほかならないのであって、それ以外に私という「もの」があるわけではない。
 p97
 分裂病者というのは、自分自身を内部から否定しようとする未知性に対する保護幕が弱すぎて有効な遮光が得られないタイプの、もっとも極端な場合だといえる。同じタイプに属しながら分裂病の発病までは至らなかった人の数は、現実の分裂病者の何倍にも及ぶだろう。こういう「分裂病親和的」な人たちは、現実の分裂病者とのあいだに一つの共通点を持っている。それは、この人たちにとっては世界がいつも自己の自覚を促す未知性を帯びて現前するため、いわば未来の先を越すという仕方で自己実現を達成しようとすることである。
 一般的に言って、分裂病親和的な人は数学者や理論物理学者、哲学者や詩人、革命理論家などに多く、応用科学の研究者、実務的な才能のある人、保守的な政治家には少ないといえるだろう。医者でいえば精神科医に多く、外科系の人には少ない。