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宮崎市定 『中国史・下』(岩波文庫)2/2

 第三篇 近世史 3.元 4.明
 広い中国で反乱を起こすには、大運河を動き回る運送業者の情報網が欠かせなかった
 P164−5
 元の末期、揚子江以南に蜂起した群雄は、後に明の太祖となる朱元璋もその一人だが、ほとんどが当時国家専売だった塩の密売業者である。もしくは米や塩を華北、河南、山東の大都市圏に供給していた大運河網の運輸業者である。朱元璋の宗主であった韓林児もしかり、彼らの中では例外的に文化人的教養の持ち主であった張士誠も私塩密売業者だった。
 日本の学者は農民反乱がお好きで、政府にたてつくものは何でも農民にしてしまいたがるが、その農民とは地主なのだろうか、小作人なのだろうか、私はいつも不思議に思う。地主連合の反乱ならば農民運動とはいえそうもないし、小作人ならば交際範囲が狭いので大きな騒動にはなりにくいのだ。
 景気停滞に伴う失業者や農民の不満を反乱に導くには、彼らの頭目とそれをまとめる首領たちのあいだに広い連絡ができていなければならず、これには生活物資運送の交通網を利用する人物の才覚が不可欠である。当時中国全土にわたって、東西に流れる大河を南北に結ぶ運河網が歴代王朝の大事業として継続していた。元の末期の反乱軍は紅巾の賊といわれたが、この大運河網を利用して私塩の密売や掠奪穀物の運搬を行う業者の秘密結社こそ、最強の反徒となりえたのである。
 (p263)中国の反乱群衆の組織形態は清の時代に入っても変わらなかった。最盛期の康熙帝乾隆帝の世を過ぎると各地に異端的真言仏教を奉じる白蓮教徒が蜂起するが、この信仰集団はじつは阿片密売業者の団結を高めるための偽装団体だった。この秘密結社が急激に勢力を伸ばし、広東から揚子江流域、、華北黄河平野に蔓延するに至ったのには理由がある。密売私塩とちがって阿片は極めて少量を単位とする商品のため隠匿が容易で、秘密結社に対する官憲の取り締まりは困難を極める。おまけに、その吸引から生ずる恍惚教の魅力は、取り締まるべき立場の官憲、軍隊を容易に引き込む力を持っていたのだ。

 アラブ発祥の航海術が鄭和の南方大航海を支えていた
 p189
 明の第3代皇帝永楽帝は宦官鄭和に命じて、インド洋、アラビア半島、アフリカまでの大軍事示威・貿易航海を行わせた。最初の遠征は永楽帝即位の3年(1405年)将兵12万を超える62艘の大艦隊である。
 この壮挙は当時の明の航海術がきわめてすぐれていたことの証拠であり、おそらくこれは元帝国の遺風を受け、すでに知られていた航路の上をイスラム航海術を応用して実施されたものだろう。その約80年後にポルトガル船が喜望峰をまわってインド洋に現われているが、これも先にイベリア半島に侵入したサラセン人の航海術を学んだものである。
 鄭和は前後7回の大航海を行って、南海諸国に朝貢をすすめ、聞かなければ武力をふるってその国を攻めた。こういう行動は今日でははなはだ理解しがたいが、しかし考えてみればアメリカのペリーが日本に対して同じことをやり、その日本が朝鮮に向かって同様なことをしたのはそんなに昔のことではない。
 この鄭和はじつは日本にも来ていて、足利義満に入貢を勧めている。幸いこのときは両者の意志が一致したので、義満は永楽帝から日本国王に封ぜられ、あわせて貿易の権利を与えられた。
 それにしても明の政策とは実に勝手きわまるものであった。まず明自身は鎖国を主義として、外国との接触は脅し賺しによる朝貢だけに限る。朝貢国は自由に貿易ができるかと思えばそうではなく、朝貢の回数、船の数、人数を制限し、制限外のものは厳罰に処する。すべて自己の都合で割り出され、自己の都合を他国に割り当てて強制するのである。永楽帝の対外政策の下敷きには、やはり元代の世界地図がはっきりと残っていたのである。ただ日本は、初代洪武帝朱元璋)の遺言で不征国の一つにあげていたので、永楽帝も気兼ねし、極力朝貢を勧誘するにとどめた。

 p195
 永楽帝はまったく朝廷の官僚を信頼しなかった。文武の官僚はすべて私心を営むものであるから、天子たるものはすべからく、官僚とはまったく別系統をなす、天子の私人、宦官を活用して、官僚の私曲を防がねばならぬという、困った哲学の信奉者であった。
 これを突き詰めて行けば、天下の土地人民は天子の私有財産である、だからいかなる手段を尽くしてもこれをかぎりなく長く子孫に伝えねばならぬということになる。これは漢人である自分たちが滅ぼしたはずのモンゴル人・元王朝の天子と符節を合わせる考え方である。
 明時代の歴史は同じ漢人王朝であった宋時代の繰り返しが多いが、さすがに宋代の天子は、皇帝の座を「無窮の財富」とは言っているものの、これほど露骨に人民の存在をないがしろにすることはなかった。たとえ外面的にもあれ、儒教の教えるところに従って、君主は人民のためにこそ存在すると称していた。いうならば、宋は社会制度の成り立ちの建前はあくまで守ろうとしたのであるが、塩と米の密売業から身を起こしてきた明の天子は、社会の建前などは、欲望という個人の本音で一蹴できると高をくくっていたのである。