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セリーヌ 『夜の果てへの旅』(中公文庫)

 表があるから裏があるというのがこの世界だと思うのだが、セリーヌはこの途方もなく暗い小説の中で人性と人生の裏面だけを狂ったように描く。およそ小説作品というものの中に、なんらかのポジティブなものを見出したい人は、上下2巻のこの長編を読み通すにはかなり忍耐を要するのではないだろうか。暗い話が嫌いではない私でさえ途中で何度「やれやれ・・・」と息を継いでページをめくったことか。ねじまがった性格を持たない人間は、貧乏でない人間は、この小説の中に一人も登場しない。
 下巻では、アンルイユという老母・息子・その女房の家族が隣人として主人公の「僕」(貧乏医フェルディナン)にどこまでも絡みつくが、彼らをパリ下町の虫けらとして描写するセリーヌの悪意はひどいものだ。下記はその一例。

 p37
 アンルイユの女房はいろんな質問で僕を悩まし続けるのだった、相変わらず同じ方向の質問で・・・黒ずんだ、ちっぽけな、ずるそうな顔をしていた、この嫁は。喋っているあいだ肘はほとんど体から離れなかった。まったくの無表情だった。なんとかして僕のこの往診代の元を取るようよう、僕を何かに役立てようと懸命だった・・・生活費は上がる一方だ・・・義母の年金ではもう追っつかない・・・自分たちだっていつまでも若くいられるわけじゃなし・・・もし誰かが私たちを不憫に思って老婆の始末をつけてくれるなら・・・万が一、老婆が気が狂って、私が押し込めた離れ部屋に火付けでもしたら・・・なぜ大人しく私の薦める養老院に行ってくれないのか・・・。
 p38
 そんな、僕とアンルイユ夫婦が陰謀をたくらんでいる(と老婆が考えている)部屋の中に、とつぜん当の老婆がおどり込んできた。まるで感づいていたみたいだった。僕は驚いたのなんのって! 腹のまわりにぼろぼろのスカートをかき集めていた、そして、いきなり現われ、裾をたくし上げ、老婆を養老院へ送ろうとして悪だくみをしている僕たちをがなりつけるのだった。
 「ろくでなしめ!」とりわけ僕をじかに罵るのだ。「帰れといっただろう!・・・だれが養老院なんて気違いどものとこへなんか行くものか!・・・尼のとこへだって?・・・アンルイユ、おい息子よ、わしを尼のところへ追い出して、ちゃっかりその分を貸し部屋にしようってか・お前が何をやらかそうが、平気さ、お前なんかに負けるものか、この犬め、畜生め、年寄女から盗みくさって・・・・・お前はげす野郎さ、どうせ監獄生きさ、長くはないさ!」

 
 ・・・まあこんな悪口は、訳者生田耕作氏によれば、筆で軽くはいたようにかわいいもので、セリーヌは小説の全ページのあらゆる対象に呪詛の言葉を投げつける。上巻では主人公の体験を通じて第一次大戦のおぞましさと愚劣さ、植民地に蔓延する恥知らずな搾取、フォード自動車工場の内部を借りて暴き出される資本主義の非人間性が暴露される。下巻ではその呪詛の鉾先がパリの住民に移っただけである。

 以下は生田氏の「解説」から。
 1932年、『夜の果てへの旅』は発刊とともに大反響を呼び、ゴンクール賞の有力候補にあげられた。そのとき、この小説は「まさしく社会主義が世界を変革し、新しい民衆の生活を実現せんと企てるもの」として読まれたらしい。セリーヌはよくぞそこまで誤読できると大笑いしただろう。この異端左翼の本質を見抜いていたのはトロツキーだけだったという。この『文学と革命』の理論家は、セリーヌは作家としては称賛に値するが、社会主義の闘士に変貌しうるタイプの人間ではないと見抜いたらしい。

 トロツキーいわく、「社会主義は希望を前提とする、ところがセリーヌの作品には希望がない。 『夜の果てへの旅』はペシミズムの書、人生を前にしての恐怖と、そして反逆よりも人生への嫌悪によって口述された書物である。・・・セリーヌは革命家ではない、革命家たらんとする気持ちもない。彼は社会を改造しようとは心がげない、そんなものは彼の眼にはまったくの幻想である。彼はただ自分をおびやかし迫害する一切のものにまつわる威信を剥ぎとりたいと願うだけだ。
 新しい文体を持ったセリーヌの力は、いっさいの慣例を踏みにじり、人生の衣を剥ぎとるだけでは飽き足らず、その生皮まで剥ぎとろうとする・・・・・自分自身に対しても情容赦なく、鏡に映る己れの姿に嫌悪を覚え、鏡をたたき割って己れの手を引き裂くモラリストにもたとえられようか・・・」(トロツキー『文学と革命』)

 訳者の生田耕作教授(そのときは助教授だったか?)の授業に、大学のとき1年間だけ出たことがある。私はいなか者だったし、セリーヌとは対極にいたポール・ヴァレリーなどにいかれていたので、授業のテーマさえ覚えていない。ただ生田教授がとてもハンサムで、中高の顔が小さく、背が高く、そのうえ足が長くて「なんとカッコいい人だ」と思ったことが強い印象として残っている。もちろん教授が京都祇園生まれの高等遊び人で、江戸期の漢詩にも詳しいなどということはまったく知らなかった。私らが学生の頃、あの『ダンディズム・栄光と悲惨』の原稿を書いているとは、一部の親しい学生しか知らなかった。出席日数が足りれば無条件に単位をもらえる先生だった。