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生田耕作 『ダンディズム』ーー栄光と悲惨(中公文庫)

 著者の生田耕作教授は非常にダンディなかただった。1924年、料亭の板前長を父として京都・祇園に生まれ、あの南座を遊び場にして育ったという。しかし京都は爆撃こそされなかったが、暮らし全般を覆う軍国主義「国家=負なるもの」のイメージを繊細な生田少年に植え付けなかったはずはない。
 わたしが一年だけフランス語の初歩を習っていたときは45、6歳だったことになる。おだやかで端正な顔立ち、脚の長いかっこいい長身をいつも黒っぽい上物のスーツで包み、きれいに磨かれた靴を履いて教壇に立ち、誰かの原書講読をしていた。ただ、フランス語の発音自体はそんなに上手ではなかったと記憶する。

 本書はそのダンディな生田先生が、「ダンディズムの本質はなにか」ということについて「書き散らした(後記より)」短文類を集めたもの。<栄光と悲惨>というサブタイトルが付いている。先生によれば「栄光よりは自ずと悲惨のほうに関心と力点が傾き、全体の構成がはなはだいびつな形に陥ってしまったのは、ひとえに著者の性向のいたせるところ」であるらしい。40数年前の授業中の印象を頭に浮かべれば、先生のこの自己批評は十二分に納得できる。

 p50
 西暦1800年の前後10年、英国王ジョージ4世の頃、イギリスのみならず、ヨーロッパ全体の<流行(おしゃれ)界の王者>として君臨したジョージ・ブランメル。彼の服飾哲学によれば、いかなる種類であれ派手な模様はいっさい寄せつけてはならぬものだった。着こなし上手は決して衣服によって目立ってはならない。そして上衣の材料は、色彩においては地味であるが、識者の目から見て立派でなければならぬ。

 p52-3
 われらの伊達者・ブランメルは、大向こうをうならせる代わりに、控えめの中に本物の粋を見分けられる見巧者な演劇通だけに語りかける、という心憎い手段をとったのだった。ブランメルはしきたりを尊重した、ただしそれを逆説的な誇張を持って尊重した。自分のスノビズムを隠すどころか、それを彼は体系化したのである。
 一般に軽佻浮薄とされるいっさいのもの、衣服、立居振舞、社交、それらを彼は堂々と、最重要なものとみなすふりを装い、さらにそれらを知性や、精神や、才能といったものよりも、はるかに上位に置くふりを装ったのだ。着飾り、着こなし、もてはやされる幾人かの人物とだけ挨拶し、その他の者を無視し、瀟洒な場所と、上流人士との交際のなかでだけ見かけられること、要するに<見せる>こと、それがスノッブの唯一の関心事である。だがだれもあえてそれを告白しない。
 ブランメルはそれが一生を捧げるに値する技術であることを宣言したのだ。彼とともに、スノビズムは恥ずべきものであることをやめた。それでもって彼は自分を飾り、誇示したのだ。彼がスノッブでなくなったのは、彼がスノビズムを体系化したからである。もはや彼は模倣せず、逆に刷新したのだ。流行に従うどころか、それを支配したのである。この、自覚的な、恣意的に誇張されたスノビズム、これこそダンディズムである。

p123
 伊達男だったボードレールが苦々しく述懐するように、女性はダンディの対極である。嫌悪をもよおさせる「自然」そのものである。女は腹がすけば、食いたがる。喉が渇けば、飲みたがる。さかりがつけば、されたがる。なんという自然の素晴らしい長所!要するに女はつねに野蛮である。すなわちダンディの対極だ。

p183
 第一次大戦後、ダンディズムはとみに人気を失墜し、個人主義に対立する集団の思想の決定的勝利が打ち出される。ダンディたちを取り巻いていた栄光はすでに過去のものとなり、ダンディズムは衰退の一途をたどる。1921年には文壇最後のダンディ、ロベール・ド・モンテスキューが世間から完全に忘れられた形で、世を去る。この前時代的人物は、プルースト失われた時を求めて』の中で、シャルリュス男爵なる異名のもとに、かろうじて後世の記憶にとどまる。


 先日偶然に見たアラン・ドロンの古い映画『スワンの恋』の中で、アラン・ドロン自身がこのシャルリュス男爵を演じていた。プルーストの原作ではシャルリュス男爵は旧ブルボン王家とつながる大貴族ゲルマント公爵の弟であり、傲慢な言動で知られる富裕な貴族だが、その裏には女性性が隠れている同性愛者でもあって、小説全体の複雑な人間関係の中で重要な役割を振られている人物である。ホモで美男子の有名貴族をアラン・ドロンは見事に演じていた。


 祇園という人工世界の粋を尽くした遊びの環境で成長し、生れながらの容姿と知性にめぐまれた生田教授の穏やかな顔つきが思い出される。と同時にブランメルのひそみに倣って、ダンディの栄光と悲惨をみずから試そうとするすさまじい想念も見えてくる。
 こういう本は生田教授のような本物の伊達者だけに書くことが許される。「軽佻浮薄とされるもの、衣服、立居振舞、社交などを、知性や、精神や、才能といったものよりも、はるかに上位に置くふりを装う」ダンディズムを、もし、市役所勤めのような容姿の、秋物と冬物のスーツを二着ずつしか持たない生田研究者が真顔になって称賛することがあるとすれば、それはまた別の意味で悲惨である。