アクセス数:アクセスカウンター

谷崎潤一郎 『盲目物語』(講談社現代文学全集)

 46歳のときの作。信長の妹、浅井長政の妻、淀君の母であるお市の方。その美貌の人の悲しい生涯を、按摩として彼女に長く仕えた弥市という座頭が、後年なじみの肩もみ客相手に語った体裁になっている。弥市は三味音曲の心得もあって長政にもお市にも贔屓にされていた男ということだ。越前・北の庄(福井市)の柴田勝家の城が秀吉に落とされるときの話そのものは、日本人なら知らない人はまずないといってよく、意外な新事実というものも出てこない。
 この小説は無教養な弥市の語り口を写し取るために、人名でさえひら仮名書きするような、当時の口承伝説ふうの文体になっている。私が読んだ二段組み大型本でひら仮名文字7割のページをパラパラめくると、句読点と改行をわざと少なくしたのがいかにも黙読しづらく見え、ため息が出てしまう。
 しかしかつては幾多の軍記物語も芝居台本も、すべて黙読よりも音読されることを前提として大きな文字で書かれていた。宗教の聖典も、洋の東西を問わずそうだった。そのことに気がつくと、谷崎は、百姓出の座頭を語り手にし、古文に擬した平易な文章を音読させることで、安土桃山時代の男、女、武将、平民の雰囲気を、みんなが楽しめる淡い絵巻にしようとしたのだろう、と思う。
 唇を動かしながら読んでいけば、北の庄の城攻めの際に、信長の顔を脳裏に浮かべながらも、お市を生きたまま手に入れたい秀吉のあせりともどかしさ、やっと妻にできたお市を秀吉にだけは渡したくない勝家の後悔と未練など、日本戦国史の声涙ともにくだる名場面が、さすが大家の手になる講談噺として胸にしみじみ入ってくる。