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[谷崎潤一郎 『少将滋幹の母』(新潮文庫)

 これを名作と言わないでどうしようというほどの名作。厖大な史料を踏まえ、古語、漢語をたくさん使いながら平明で読みやすく流れるような叙述は読者に時間を忘れさせる。
 中下級貴族などは人とも思わない権勢家左大臣時平、歴史上有名な好色男・平中、滋幹の父で妻を目の前で盗まれる痛ましい老公卿経国など、少将滋幹をとりまく人間の動きに無理がない。そして、本一冊としての大きなものの哀れのなかに、名高い狂言役者の振舞のように目を引く小さなおかしみ・・・・・、私が個人的には好きでない谷崎の女性拝跪もあまり目立たず、すでに『蓼食ふ虫』(42歳)、『卍』(44歳)、『春琴抄』(47歳)、『細雪』(62歳)などで名声を確立し尽くした老大家の力量が、細かな単語づかいのすみずみに感じられる。
 巻末に河盛好蔵が「解説」を書いている。
「・・・・・『少将滋幹の母』は、作者が34歳のときに書いた『母を恋うる記』を64歳の老年になって再び芸術化したものと見ることができよう。・・・・・しかし散文詩のような『母を恋うる記』にくらべて、『少将滋幹の母』はなんという見事な、円熟した作品であろう。長い人生経験と深い学識が、しっかりとした骨組みになっている。緻密に構成されたこの作品は、古典劇の如く堂々としており、また一巻の絵巻物を繰り広げるような興趣に富んでいる。史実と創作とが渾然ととけあって、読者は空想の翼をどこまでも遠く広げることができる。
 平中の好色ばなしで始まった物語が、権力者時平のすさまじい恋愛になり、その時平に奪われた妻に対する妄執から逃れようとあがく国経の不浄観の修行に転じ、最後は滋幹が、<奪われていった母>に40年ぶりに出会うところで物語は終わる。その母は「花を透かしてくる月明かりに暈されて、可愛く、小さく、円光を背負っているように見える」。筋の起伏の巧みさと、作者が長い芸術修行の間に身に着けた筆さばきの技法は、読者をしてしばしば巻を措いて感嘆せしめる。巨匠の作品とはこういうものを指すのであろう。」
 
 ただ思うに、若く美しい「滋幹の母」は左大臣時平が自分をさらってくれることを待っていたのではないか。絶世の美女が老公卿経国のもとで無残に老いてゆくことを、あの谷崎が表も裏もなく許すはずがない。文字面ではどこにもそんなことは書かれていないが、読んで数日たつとその思いが深まってくる。「可愛く老いた小さな母」はそうした女性性を全うした罪障のゆえにこそ円光を背負っているのではなかろうか。