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池澤夏樹 『光の指で触れよ』(中公文庫)

 2011年の作品。2015年アマゾンで買ったのだが届いたのはまだ初版だった。著者にしては不人気の作品なのだろう。
 著者はこの作品で未成年の子供を持つ夫婦の家庭内の役割のあり方という、解決しようのないことというか、保守派の私から見ればそんなことは問題として成り立ちうるのかという問題を正面切って取り上げた。
 能力ある技術系サラリーマン林太郎と環境問題につよい関心があるアユミの夫婦には12歳くらいと3歳くらいの子供がいる。かれらは仲のいい夫婦なのだが、あるとき林太郎が会社の女性と浮気をしてしまう。怒ったアユミは下の子を連れ、オランダに住む友人のところへ行ってしまう。その友人からヨーロッパ各地にある有機農業を中心とした<コミュニティ>の存在を教えられる。商品の大量消費・大量廃棄にかねがね疑問を感じてきたアユミはそのコミュニティの精神に強く惹かれ、スコットランドの大きなコミュニティに子供と移り住む・・・・・。
 600ページを超す長編で話はまだまだ続くのだが、途中250ページあたりに、上の子である森介が一人で母親に会いにくるシーンがある。そのときのアユミの言葉が、「二人も子供がありながら自分探しでもなかろう」と私をイラつかせた。

 アユミ 「学校から帰ったとき、誰かがいればいいんでしょ?子供が帰ったときにだれもいないのは淋しい。それはわかるわよ。そして、森介の場合はわたしだった。今はたいていの家ではそうかもしれない、結果として。でも、それは母親の役割と決まっているわけではない」
 森介 「それはそうだけど」
 アユミ 「でもわたしは仕事もしたかった。だから(環境問題ニュースレター編集という)家でできる仕事を選んだ。この役割分担がいやだというんじゃないのよ。で、わたしは考えて、きみの父と議論して、この役割を選び取った。それが母親の役目だからではなく、合理的だと思ったから」
 森介 「それに、妹がいた」
 アユミ 「そう。幼い子の世話をするのは母親の仕事。これはもう決まったこととしていいわ。でも、日本であなたを育て、子供の砦を守る役割をしながら、どこかおかしいと思ってきた。もう一歩前に出たいと思ってきた。その一歩が、日本の核家族社会にはない、たくさんの人と緩いつながりで接することができるここのコミュニティで見つかる気がするの。」

 林太郎とアユミの問題は、アラン・ブルームがかつて、現代アメリカの「民主的」相対主義を徹底的に攻撃した『アメリカンマインドの終焉』で書いたこととほぼ同じである。
 アラン・ブルームは言った。
「夫婦の職場が別々の都市にある場合、どちらがどちらに従うのか。これは未解決の問題で、どんな意見が出されようとも、痛む傷口であることに変わりはない。それは憤怒と猜疑の種であり、ここからいつ戦争が始まるとも知れない。
 さらにフェミニストが持ち出した妥協は、子供の世話については何も決めていない。両親とも子供より自分たちの仕事を大事にしようとしているのだろうか。以前だと、子供は少なくとも片方の親――すなわち女性――から無条件の献身を受けたものだ。女性にとって子供の世話は人生でこよなく重要な務めだった。夫婦二人が子供に払う半分ずつの配慮は、一人が懸命になって払う配慮の全部と同じといえるだろうか。二人の共同責任というのは子供を無視するための言い訳ではないのか」。
 日本でもヨーロッパでもアメリカでも、都市に住む夫婦は、いつまでもこの問題を解決できない。池澤夏樹はこの小説において主人公・林太郎に会社をやめさせ、東京近郊の農村という「疑似ユートピア」で、近隣の人々から学ぶ土づくりからの有機農業生活を選ばせた。大企業での安定収入の道は絶たれるが、妻はそのことに同意しており、アラン・ブルームが言うような子供の世話についての大都市に住む夫婦の議論も起こりえない。そういうふうに池澤夏樹は小説を締めくくった。そしてそのぶん、物語としてのリアリティは格段に薄れ、多くの読者の共感を失った。