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村上春樹 『騎士団長殺し』(新潮社)

 村上春樹は、展開の卓抜さでも登場人物の語り口の意味の深さでも、他の作家に後を追おうという気をなくさせる力量を持つ。『1Q84』以来ちょうど7年ぶりの長編だが、現実世界の座標をほんの少しだけずらしたメタファーの時空間を舞台にしているのは、『1Q84』とかわらない。

 ハラハラさせるサスペンス小説としての面は『1Q84』よりも少ないが、描かれる世界は同じように謎に満ちている。だが、配役たちにふりかかる超日常的事件を描写する単語がとてもやさしく明晰なので、読者はこうした超日常的事件は<世界の境目>にはときどき起こりうるのだと同意させられて、ページを進めてしまう。

 上下巻で1000ページを超える大作、そこに幾筋もの流れが重なり合っていて、最後まで簡単には合流しない。このような作品の梗概を書くことは、わたしの手に余る。そんな興ざめなことをするより、二人の主役がこの劇全体の流れについて対話するシーンが下巻の後半にあるので、そこを書き抜く。登場人物のダイアローグなのでネタバレを最小限にできるメリットもある。

 

 私(小説の語り手)は床に屈みこんで、画家・雨田具彦の『騎士団長殺し』をくるんでいた布をはがし、その絵を壁にかけた。そして(「私」が講師をしている絵画学校の生徒)秋川まりえをスツールに座らせ、その絵をまっすぐ正面から見せた。
 「この絵は前に見たことがあるね?」
 まりえは小さく肯いた。
 「この絵のタイトルは『騎士団長殺し』っていうんだ。少なくとも包みの名札にはそう書かれていた。雨田具彦さんが描いた絵で、いつ描かれたのかはわからないが、完成度はきわめて高い。構図も素晴らしいし、技法も完璧だ。とりわけ、一人ひとりの人物の描き方がリアルで、強い説得力を持っている」

 私はそこで少し間をおいた。私の言ったことが十三歳のまりえの意識に落ち着くのを待った。それから続けた。

 「でもこの絵はこれまでずっと、この家の屋根裏に隠されていた。人目につかないように紙にくるまれたまま、おそらくは長い年月そこで埃をかぶっていた。でも僕がたまたま見つけて、運び下ろしてここにもってきた。作者以外にこの絵を見たことがあるのは、たぶん僕と君だけだろう。君の叔母さんも最初ここに来たときにこの絵を見たはずだが、なぜかまったく興味を惹かれなかったようだ。雨田具彦がどうしてこの絵を屋根裏に隠していたのか、その理由はわからない。こんなに見事な絵なのに、彼の作品のなかでも傑作の部類に属する作品なのに、なぜわざわざ人目に触れないようにしておいたのだろう?」

 まりえは何も言わず、スツールに腰かけて、『騎士団長殺し』を真剣な目でただじっと見つめていた。

 私は言った。「そして僕がこの絵を発見してから、それが何かの合図であったかのように、いろんなことが次々に起こり始めた。いろんな不思議なことが。まず免色(めんしき)さんという人物が僕に積極的に接近してきた。谷の向こう側の、真っ白な大きな家に住む免色さんだ。とてもとても興味深い人だ。このあいだ君は叔母さんといっしょに免色さんの家に行ったよね」
 まりえは小さく肯いた。
 ・・・「それから真夜中に鈴の音が聞こえてくるようになって、それを辿っていくと、雑木林の祠の裏にあるあの不思議な穴に行き着いた。というか、その鈴の音は積み重ねられたいくつもの大きな石の下から聞こえてくるようだった。その石を手でどかせることはとてもできない。
 「そこで免色さんが業者を呼び、重機を使って石をどかせた。どうして免色さんがわざわざそんな面倒なことをしてくれたのか、僕にはよく分からなかったし、今でもわからない。でもとにかく免色さんはそれだけの手間とお金をかけて、石塚をそっくりどかせた。

 「そうするとあの穴が現われた。直径二メートル近くの円形の穴だ。石を積んでとても緻密につくられた丸い石室だ。誰が何のためにそんなものを作ったのか、それは謎だ。君はあの辺りの、誰も知らない小道をときどき散歩していたそうだから、その穴が暴かれたことを知っていた、そうだね?」
 まりえは肯いた。
 「その穴を開くと、小さな古代の鈴みたいなものが出てきた。この絵に描かれている騎士団長が持っている鈴だよ。そのときの僕には見えなかったが、その穴には騎士団長もいて、かれが真夜中に鈴をならしていたことが後でわかった。そのことを穴を暴いた翌日に僕の家に来た騎士団長自身から聞いた」

 私はその絵の前に行って、そこに描かれた騎士団長の姿を指さした。まりえはその姿をじっと見ていた。しかし表情に変化はなかった。

 「騎士団長はこれと同じ顔をして、同じ服装をしている。ただし体長は六十センチほどしかない。とてもコンパクトなんだ。そしてちょっと風変わりなしゃべり方をする。でも彼の姿はどうやら、僕以外の人には見えないらしい。彼は自分のことをイデアだという。そして自分はあの穴の中に閉じ込められていたんだと言った。つまり僕と免色さんが彼を、穴の中から解放したわけだ。君はイデアというのが何か知っているかな?」

 彼女は首を振った。

 「イデアというのは、要するに観念のことなんだ。でもすべての観念がイデアというわけじゃない。たとえば愛そのものはイデアではないかもしれない。しかし愛を成り立たせているものは間違いなくイデアだ。でもそんな話を始めるときりがなくなる。僕にもよく分からない。

 しかしとにかくイデアは観念であり、観念は姿かたちを持たない。それでは人の目には見えないから、そのイデアはこの絵の中の騎士団長の姿をとりあえずとって、僕の前に現われたんだよ。

 ・・・・・「この絵からは、ほかにもいろんな人物が現われ出てきた。画面の左下に髭もじゃの変な顔をした男の姿があるだろう?僕は仮に<顔なが>と呼んでるんだけど、彼もやはり画面から抜け出して、年老いた雨田具彦の入院先に現われた。僕はその病院で、雨田具彦がなぜ『騎士団長殺し』を描き、しかも自宅の屋根裏に隠したのかを訊ねようとしたんだ。

 しかし、それを知るにはどうしても意識の地の底を通っていくしか方法はないようだった。
 <顔なが>は僕を雨田具彦の病室から、地底の国に導いてくれた。地底の国では、やはりこの絵の中に描かれている若いきれいな女性ドン・アンナに出会った。ドン・アンナは地底の国から脱出するための横穴を教えてくれた。もし彼女に会わなかったら、僕はそのまま地底の国に閉じ込められていたかもしれない。

 そしてひょっとしたら、ドン・アンナは雨田具彦さんが若くしてウィーンに留学していたときの恋人だったかもしれない。彼女は七十年近く前に、ウィーンに侵攻してきたナチス政治犯として処刑された」。(p440-3)・・・・・・。

 この小説を成立させているのが村上春樹の中にある「イデアとしての物語」であることだけはよく理解できる。しかし僕たちの愛が成就した、あるいは別離に終わったあとで、その愛の中にあったさまざまな要素を足し合わせても、イデアとしての愛には決してならないように、この小説の中の様々なセリフや登場人物を綜合しても、作者の中にあったイデアを復元することには決してならないだろう。