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アラン・シリトー 『土曜の夜と日曜の朝』(新潮文庫)

 いわゆる悪党(ピカレスク)ロマン。しかし主人公アーサーは悪党ではあるが犯罪者ではない。第二次大戦終わって間もないのに今度はアメリカとソ連が怪しくなる。モスクワに水爆が落とされてなにもかもおさらばになっちゃかなわない。その前にしがない人生をめいっぱい楽しみ、世間を片っぱしから壊そうと決めたアーサー=労働者階級若者の心理の成り立ちと成り行きが300ページいっぱいに書かれている。

 アーサーにとっては、「ばかげた法律なんてものは、おれみたいなやつにまんまと破られるためにある」もので、だから彼は顔が青くなるまで嘘をつき続け、悪くない頭を使ってずるくたちまわることを唯一の武器として、高賃金の工場と、週末ごとに倒れるまで飲む居酒屋と、同僚の女房の寝室の間を懸命に駆け回る。そしてとうとう寝取られ同僚に妻とのことを嗅ぎつけられ、軍隊上がりの大男を二人も差し向けられて半殺しの目にあう。

 しかしアーサーは母親思いで、幼い子供達にも優しい。読者に憎まれる札付き不良としては描かれていない。一度は国政選挙のとき、まだ選挙権がないのに父親の投票権を持ち出し共産党に票を入れている。しかも「組合集会に出ろとか、ケニアでの英軍の横暴に抗議」しろとかばっかり言って、肝心の賃上げには臆病な組合幹部には反感を抱いている。

 要するにアーサーは、自分の目に触れる範囲のあらゆる社会的な権威と束縛に本能的に反抗しているわけで、この反抗はなんら意識的なものではないし、自分がどういう規準にのっとって何に反抗しようとするのかについて自覚的ではない。

 シリトーはこんなアーサーの無鉄砲ぶりを、ただ目に見える行動だけを通して身体的に描いていく。だから読者には、一体シリトーが描こうとするものが何なのか、だいぶ考えないとわかりにくい。解説を書いた河野一郎氏は「アーサーの怒りの源泉は福祉国家イギリスの持つ矛盾に対しての漠然とした腹立たしさだろうか」と述べているが、それでは多分曖昧すぎる。

 20世紀前半までの工場労働者の生活――アーサーの父親までの家庭経済はひどいものだった。タバコも切れがちで、家族旅行など夢でしかなかった。でも父も母も、自分たちの階層はそんなものだと観念して、日ごろの憤懣は息子のように暴力的にはならなかった。
 戦後になってそれが変わった。アーサーは自分が幼いころの父と母の生活苦を知らない。今はふつうに働けば中古車だって買えるし、彼のクローゼットには優に100ポンド分はあろうかという上等な服がずらりと並ぶようになった。
 これは明らかに国の福祉政策のたまものなのだが、彼の身体はそれに感謝を感じない。感謝のかわりに、たまに上等の服を着られるようになっただけ、逆にアーサーはそれ以上には決して上昇させない社会の階層性に激しく苛立つようになってしまったのだ。日本の若者が決して見せない階層としての苛立ちである。