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オリヴァー・サックス他 『消された科学史』(みすず書房)

 この本には以下に抜き書きしたダニエル・ケヴレス『がんとウィルスと勇気ある追跡の歴史』のほかにも、スティーブン・グールド『進化観を歪める図像』、オリヴァー・サックス科学史における忘却と無視』のほか、環境や遺伝子、意識と無意識の相互関係といったテーマの科学史レビュー6篇が収められている。いずれも、いっときもてはやされた学説がどのようにして表の世界から消えていくのか、学説にも「流行」とか「偶然性」がつねに付きまとっていることがよくわかって、いかにもみすず書房らしい良書である。

 ダニエル・ケヴレス『がんとウィルスと勇気ある追跡の歴史』

 p110

 1969年、がん―ウィルス原因説が話題を呼んでいたころ、アメリカ国立がん研究所のヒューブナーとトダロは、さまざまな脊椎動物の腫瘍を観察した結果、腫瘍は新たなウィルス感染によって生じるわけではなく、物理的要因や化学的刺激を受けた結果として自然発生的に生じていると発表した。ただしいつもそこにはRNA型腫瘍ウィルスの存在が認められた。したがって多くの脊椎動物の細胞は「内在性ウィルス遺伝子」――RNA型ウィルスとして観察されるものを作り出すDNA――を持っているに違いないと彼らは結論づけた。

 ウィルス――それ自身にはがんを引き起こす力はない――が存在する部位に腫瘍を誘発する能力を持った「がん遺伝子」がある場合が数多くある。彼らは、太古の時代に脊椎動物に入ったウィルスが体内の細胞や細胞のDNAに侵入し、それが以後の世代に遺伝によって連綿と伝えられたと考えている。そして正常な細胞ではその内在性ウィルス遺伝子は抑制されているが、なんらかの自然的原因あるいは環境中の発がん物質などによって抑制が解かれると活性化するのだろうと示唆した。その活性化の結果が、現在観察されるウィルスの生産および正常細胞のがん化だというのである。

 p116-7

 1979年、マサチューセッツ工科大のロバート・ワインバーグの研究室は、発がん性化学物質で処理することで実際に正常細胞のDNAをがん遺伝子に変えることに成功した。この実験はまもなく他の研究室で行われた実験により確証された。その研究室では同様に実験によってウサギ、ラット、マウスなどの正常細胞で遺伝子ががん化し、さまざまながん細胞が発見された。

 一時は、がん化する正常細胞の遺伝子には二つのタイプがあると考えられていた。ウィルスの作用によってがん遺伝子になるタイプと、化学物質などによってがん遺伝子になるタイプの二つである。ところが1983年にそうした区別には根拠がないことが明らかになった。ウィルス性がん遺伝子も非ウィルス性がん遺伝子も、そのDNAは多くの共通部分を持っており、正常細胞ががん細胞に変化するまでは正常な細胞遺伝子として、生物の組織の成長や調節、分化といった細胞としての基本的な機能を果たしていることが判明したのである。その正常な細胞遺伝子が、環境中の発がん物質や細胞内での偶然のプロセス、そして稀にウィルスに遭遇するとがん遺伝子に変化する。

 この “ある機会” が訪れるとがん遺伝子に変化する正常な細胞遺伝子は動物の大きな系統樹全体にあまねく存在するようである。われわれの「内なる敵」ともいえるこの「正常」細胞遺伝子が脊椎動物の体内に入ったのは4億年前とも言われている。現在では約100種類もの正常―がん遺伝子の存在が知られている。