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大嶋幸範 『原発賠償費用を電気代にこっそり上乗せ』(朝日新聞投稿原稿)

 2月27日付本紙一面に「福島原発の賠償費 1世帯年587〜1484円を電気代に上乗せ 負担額は検針票には示されておらず、利用者の目には届かない」とあった。
 被害者に対する賠償の必要は理解できる。国や東電が巨額賠償に対する資金を短期的には用意できず、一般国民に負担を求めることも、理解できる。しかしその負担を「検針票に示さず、利用者にわからない」ように、いわば家計から「こっそりいただく」とはどういうことなのか。国はなぜ国民に対し堂々と「原発賠償用特別税として、電力会社ごとに1世帯年587〜1484円の負担を電気代に上乗せしてお願いしたい」と言えないのか。
 今回の電気代上乗せによる賠償費負担は、ヤミ課税のようなものである。国民は気づかないとタカをくくった詐欺行為である。こういう姑息なことをしているかぎり東電や当局の信用はいつまでも上がらない。(20170307大阪朝日記事)

谷崎潤一郎 『盲目物語』(講談社現代文学全集)

 46歳のときの作。信長の妹、浅井長政の妻、淀君の母であるお市の方。その美貌の人の悲しい生涯を、按摩として彼女に長く仕えた弥市という座頭が、後年なじみの肩もみ客相手に語った体裁になっている。弥市は三味音曲の心得もあって長政にもお市にも贔屓にされていた男ということだ。越前・北の庄(福井市)の柴田勝家の城が秀吉に落とされるときの話そのものは、日本人なら知らない人はまずないといってよく、意外な新事実というものも出てこない。
 この小説は無教養な弥市の語り口を写し取るために、人名でさえひら仮名書きするような、当時の口承伝説ふうの文体になっている。私が読んだ二段組み大型本でひら仮名文字7割のページをパラパラめくると、句読点と改行をわざと少なくしたのがいかにも黙読しづらく見え、ため息が出てしまう。
 しかしかつては幾多の軍記物語も芝居台本も、すべて黙読よりも音読されることを前提として大きな文字で書かれていた。宗教の聖典も、洋の東西を問わずそうだった。そのことに気がつくと、谷崎は、百姓出の座頭を語り手にし、古文に擬した平易な文章を音読させることで、安土桃山時代の男、女、武将、平民の雰囲気を、みんなが楽しめる淡い絵巻にしようとしたのだろう、と思う。
 唇を動かしながら読んでいけば、北の庄の城攻めの際に、信長の顔を脳裏に浮かべながらも、お市を生きたまま手に入れたい秀吉のあせりともどかしさ、やっと妻にできたお市を秀吉にだけは渡したくない勝家の後悔と未練など、日本戦国史の声涙ともにくだる名場面が、さすが大家の手になる講談噺として胸にしみじみ入ってくる。

森鴎外 『大塩平八郎』(昭和出版社 鴎外作品集第5巻)

  天保8年(1837年)、大坂町奉行所の与力・大塩平八郎は、米の値段が騰貴し、貧民が難渋しているときに乱を起こした。この暴動の原因はただ一つ、飢饉である。
 天保3年(1832年)頃から天候が長期的に不順になり、ひどい不作が続いた。天保7年の作柄は全国平均で平年の30%ほどだったといわれている。米の相場は作柄に反比例して上昇し、天保初年の大阪では1両で150kgほどの米が買えたのに、天保7年になると50kg弱しか買えなくなった。3倍以上も高騰して平民は米を食べられなくなってしまった。
 p70-1
 大塩は貧民の味方になって官吏と富豪に反抗した。そうして見れば、この事件は後の世に言う社会問題に関係している。もちろん「社会問題」という名称は西洋も18世紀になって、企業家と労働者の間に生じたものではあるが、その萌芽はどこの国にも昔からある。貧富の差から生じる衝突はみなそれである。
  もし平八郎が、人に貧富の別の生じるのは自然の結果だから、成り行きのままに放任するのがよいと個人主義的に考えたら、暴動は起きなかっただろう。
 もし国家なり自治団体なりに頼って、当時の秩序を維持しながら救済の方法を講じることができたら、彼は一種の社会政策を立てただろう。また、徳川専制社会になるまえから自治団体としていくぶん発展していた大阪に、平八郎の手腕を振るわせる余地があったら、暴動は起きなかっただろう。
 この二つの道がふさがっていたので、平八郎は当時の秩序を破壊して望みを達しようとした。平八郎の思想はいまだ覚醒せざる社会主義であった。平八郎は極言すれば、天明飢饉以来それまでに幾たびか起きた米屋壊しの雄である。天明においても天保においても、米屋壊しは大阪から始まった。平八郎が大阪の人であるのは決して偶然ではない。
 平八郎は義士であり哲学者であった。しかしその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生まれず、恐ろしい社会主義も生まれなかった。

森鴎外 『阿部一族・堺事件など』(昭和出版社 鴎外作品集第4巻)

 この巻には、ほかにいくつかの短編が入っている。その一つ『羽鳥千尋』では、羽鳥という青年に私淑され、書生として居候させてくれと頼まれる(鴎外自身らしい)「私」の、小学校以来の大秀才ぶりが詳しく書かれている(p63-4にかけて)。鴎外のことだから文の調子は抑えられていて、少しも嫌味ではないが、あきれるほどよく勉強ができたようだ。
 『堺事件』は土佐藩士が20人ほども切腹させられた外交事件を描いたもの。大政奉還の前後、フランス駐留兵とこぜりあいがあって、フランスが先に発砲したのにもかかわらず、撃ち返した土佐藩に非があるとされたという典型的な「植民地いじめ」である。外交能力のまったくない日本政府を小手先で扱うヨーロッパ先進国が憎らしいが、小説の中ではそのフランス公使が武士たちの凄惨な切腹場面を見せられて慌てふためく。
 藩士の中には、自分の腹をまず下から上へ、次に左から右へ裂き、最後に上から下へおろして、しかもその裂けた腹に手を突っ込み、腸をつかんで投げる者もいた。この場面は史実らしい。場所は土佐藩菩提寺の庭。外国事務総裁の皇族・山階宮、伊達、細川、土佐、薩摩、長州、備前など雄藩の家老が立会人としてこの地獄絵図の見物人となった。
 以来150年の間にこの国の人の、ものの見方、思い込み方、感受性はこんなにも変わった。いま私たちは、何に目をそむけ、何を美しく正しいと思い込んでいるだろうか。

森鴎外 『青年』(昭和出版社 鴎外作品集第3巻)

 日本が近代化して半世紀、新しい文学を新しい頭脳で開こうとする若者の芸術論と、時代などでは変わらない恋ごころが、どちらも正面から扱われる。鴎外48歳、1910年の刊行。漱石の『三四郎』(1908年、42歳)に大いに触発されて書いたものらしい。生真面目な鴎外はこの小説の中で、漱石の桁違いの学殖や文章技術について最大限の賛辞を述べている。
 『三四郎』では、三四郎は熊本の田舎から「どこまで行っても街がなくならない」大東京にポッと出てくる。そして自分の学校にある、(のちに三四郎池と呼ばれるようになった)大きな池の端で、都会の女・美禰子の視線に出会い、一生消えないような焼き印を胸に押されてしまう。美禰子は、「その巧言令色が、努めてするのではなく、ほとんど無意識に天性の発露のままで男を虜にする、もちろん善とか悪とかの道徳的観念もないでやっているかと思われる・・・・」ような、漱石作品によくあるタイプの、男を惑わす女性である。
 鴎外の『青年』で三四郎にあたる主人公の名は小泉純一。美禰子の役を演じるのは帝大法学部坂井教授の未亡人・れい子。老教授の娘といっていいほど若い、美しい人である。しかも静かに夫の跡を弔っているということはなく、教授が生きていたときよりも派手な暮らしをしているという噂がある。
 純一が医学・哲学・文学にくわしい友人・大村と数寄屋橋の有楽座にフランス演劇を見に行ったとき、その坂井未亡人が若い女二人を連れて純一の隣の席に座ったのだった。未亡人はいかにも世間になれた上流夫人の闊達さで、当夜の演目のあらすじなどを純一に尋ねる。まだ20歳にもならない年頃だから、純一はそれを真に受けて、劇の展開などを得意になって説明しようとする。

 p50
 奥さんは 「おや、あなたフランス学者?」と言って、何か思うことがあるらしく、にっこりと笑った。落ち着いた、はっきりした声である。そしてなんとなく金石の響きを帯びているように感じられる。しかし純一には、声よりは目のひらめきが強い印象を与えた。横着らしい笑みが眼の底に沈んでいて、口で言っている言葉とはまるで別の表情をしているようである。
 都会に慣れない純一にはその表情がどういう感情に根ざしているのか、まったく分からない。未亡人は芝居がはねて劇場を出るときに、「宅にはフランスの古典演劇の本もたくさんあるから、いつだってかまわないのでぜひ見にいらっしゃい」というリップサービスまでしてくれる。「これから世界を知り抜いてやるのだ」との意気込みが純一の顔じゅうに見えるものだから、未亡人は純一をからかうのがおもしろくて仕方がない。本を借りに行くと、「今年の暮れは箱根にいるから、ラシーヌなどのお話をそこで聞かせて頂戴」などといって、純一を翻弄する。
 純一は未亡人の肉の誘惑を感じる。しかし純一の自制力は未亡人の目の表情と口から出る言葉が一致しないことを疑う。「自分の中では、奥さんと会って以来、ある希求にともなう不安の念が次第に強くなってきた。自分は極力それを斥けようとした。しかし斥けてもまたくる。敵と退陣してこぜりあいの絶えないようなものである。」・・・・・そして、逡巡の末に若者らしい行動を決意するのだが、結果は、「恥辱を語るページを添えたくはない」と日記に書かざるを得ないことになる。(p102)

 筋の一部を『三四郎』に借りているのだが、純一は小説の主人公としては三四郎よりも世間との交渉や摩擦がずいぶん少ない。これは堅い軍人の鴎外と市井にも通じた漱石の、生活人としての差だろうか。そういえば、と言えるかわからないが、この小説の冒頭近くで鴎外が自分のことをこっぴどく貶している。思わず笑ってしまった。 p6
 これが鴎村(鴎外のこと)の家か。干からびた老人のくせに、みずみずしいい青年の中に入ってまごついている人、そして愚痴と嫌味とを言っている人、竿と紐尺を持って測量士が土地を測るような小説や脚本を書いている人のことだから、いまごろは苦虫をかみつぶしたような顔をして起きて出て、台所で炭薪の小言でも言っているだろうと思って、純一は身震いをして鴎村の門前を立ち去った。

ミシェル・ウェルベック 『地図と領土』(ちくま文庫)

 ちまちました日本の作家には書けない、神を相手にしたことのある民族の子孫にしか書けない大傑作。
 地図とは世界を今あるように作った「第一原因」の意図のままにあるところのものだが、領土とは、その「地図=無機質」世界を、意識によって分節・説明することで人間的な「自然=有機質」世界に作り直すことができる・・・・・そういうことをこのタイトルは指しているだろう。
 ウェルベックを有名にした1998年発表の『素粒子』は、西欧白人社会の人口減少とその先の滅亡を先触れした文明論小説であり、ゴンクール賞受賞をめぐって一般紙まで大騒ぎする問題作だった。これに対し2010年発表の本作『地図と領土』は基本的には芸術論小説である。作者ウェルベック自身が実名で頻繁に作品中に登場するという変わった書き方がされているが、話の運び方や作中人物の扱い方にスキャンダラスなところはひとつもない。

 主人公ジェドがおもに写真と絵画の造形芸術で、世界の写し取りとそこにうごめく人間群の美醜のクローズアップを行うのに対し、登場する作者ウェルベックはジェドの個展のカタログに長文のオマージュを寄せて、ジェド作品に理論的基礎付けを与える。小説家・詩人であるウェルベックは世界――神のものである地図と人間のものである領土を、テクニカルには造形芸術でも説明可能だと語っているようにも見える。
 もちろんシニカルな『素粒子』の作者は、説明可能な世界のロマンティシズムを大真面目に歌っているわけではない。第3部になってウェルベックを悲劇が襲い、主人公ジェドに緩慢な老いが訪れる。フランスの新しい世代が先行するどの世代よりも保守的になり、金や既存の社会的ヒエラルヒーを敬うようになったことを悟るとき、二人の諦念はかぎりなく深い。
 登場人物としてのウェルベックは、ジェドの個展に寄せた長文のオマージュの中で、ジェドの大作絵画の一つである『ビル・ゲイツスティーブ・ジョブズ情報科学の将来を語り合う――パロアルトでの対話』を解説しながら、二人の天才情報技術者の人間性を解剖して見せる。
 p199-203
 画家ジェドは政治意識の強いアーティストであるが、この作品における彼の眼差しは民俗学者の視線である。籐椅子に身体を静めたビル・ゲイツは、両腕を大きく開いて相手に微笑みかけている。チノパンにカーキ色の半そでシャツ、裸足にサンダルという格好である。それはもはや、マイクロソフト社が世界制覇を確かなものとし、彼自身、ブルネイの首長を抜いて世界長者番付第一位になったころのビル・ゲイツではない。そしてまた、スリランカの孤児院を訪問したり、西アフリカでの天然痘流行の再燃に対し、国際世論の注意を喚起したりする、苦悩に満ちた表情で社会問題を憂う人でもない。その中間の時期、マイクロソフト社の会長の地位を明け渡して明らかに幸福そうな様子のビル・ゲイツであり、<オタク>としての過去の名残りは瞳がやけに拡大されて見える金属フレームのメガネにのみ認められる。
 その正面にいるスティーブ・ジョブズは、会談の場がカリフォルニア・パロアルトにある彼の自邸なのにもかかわらず、逆説的にも、峻厳さの化身にして、伝統的にプロテスタント的資本主義と結びつけられている<憂慮>の化身でもあるかのように見える。なにか厄介な考え事のヒントを探るように右手であごをつかんだ様子や、ビルに注ぐいかにも不安げな眼差しにはカリフォルニア的なところは皆無である。
 自伝『ビル・ゲイツ未来を語る』のなかで、ビル・ゲイツはときおりシニカルきわまりないと思えるよう側面を見せている―――とりわけ、もっとも革新的な製品を送り出すことは、企業にとって必ずしも得にならないと率直に述べているくだりにおいて。名前こそ挙げていないものの、それがアップル社を指すことは明白だった。
 だがこの一見シニカルに見える態度は、ゲイツの深い真実を示すものではない。真実はむしろ、彼が資本主義に対する、そして神秘的な「見えない手」に対する信仰を明確に述べている、ほとんど感動的な一節に表れている。市場にとっての善は世の中にとっての善と一致するのだというゆるぎない確信をゲイツは持っている。そのときビル・ゲイツは、その深い真実において、信念の人として立ち現われるのであり、真摯な資本主義者のその信念、その無邪気さこそ、画家ジェド・マルタンが瞳がやけに拡大されて見える金属フレームのメガネのなかに表現し得たものだった。『情報科学の将来を語り合う――パロアルトでの対話』とはあまりにつつましい副題である。ジェドはむしろ『資本主義の簡潔な歴史』としてもよかっただろう。

ミシェル・ウェルベック 『プラットフォーム』(角川書店)

 高級?ポルノ小説だ。えげつないセックス描写だけで読者を引っぱっているところがある。
 半年前に読んだ『素粒子』はすばらしい作品だった。デカルトパスカルヴァレリーサルトルなどに短くも鋭く言及しながら圧倒的なストーリー構築力でヨーロッパ文明の末期的症状を読者に突きつけるものだった。
 物質生活がこれほどに豊かに便利になっているのに、白人社会には人口減少という衰亡の徴候がはっきりと表れている。この末期的症状に対処しようと、『素粒子』の主人公は植物から人類まで共通の二重螺旋構造という遺伝子コード複製のトポロジーを変えようという絶望的な挑戦をする。もちろんこの挑戦は失敗し、作品全体は救いのないペシミズムに覆われていく・・・・・。
 いっぽうこの『プラットフォーム』では、西欧文明の閉塞感は西欧人のセックスライフのやりきれなさにあるとする。そうだから、西欧とはまるで異なる性愛観を持つ南アジア人との性交流企画を大がかりに実践することが末期症状を救うてだてになるのではないか、とする。作者がどこまで「本気」なのかはわからない
 南アジアのセックスツアー企画に「これからのヨーロッパ人の桃源郷の土台(プラットフォーム)」を見出そうとするこの小説は、たぶん構想そのものに軽いニヒリズム・フランセーズがある。最初の小説『素粒子』が大力作SFだっただけに、3作目となる本作に対してネットには大げさで物騒な噂と書評があふれていた。しかし半分ほど読んで拍子抜けしてしまった。
 ただし、西ヨーロッパの人口減少が止まらない理由、あまりに先頭を走りすぎて楽しくなくなってしまったパリのセックス産業の実態、宗教としてのイスラムを一般的フランス人は本音としてどう思っているかなどは、露骨な言葉づかいで戯画化されているので読んでいて楽しい。

 成功する女は男の価値観を横取りする p146
 このさき女性はますます男性化するだろう。いまのところはまだ、自分が魅力的であるかどうかは女にとって大問題だが、フェミニズムの助けを借りて仕事や出世に夢中になればなるほど、彼女たちはそれまでバカにしてきた手っ取り早い道を見つけるようになる。要するに彼女たちもまたセックスに金を払うようになる。そしてセックス観光に向かうようになる。女性たちは男性的な価値観にすぐ順応できるんだよ。仕事のできる女ほど。

 イスラムに比べれば、カトリックはすばらしい多神教 P252
 「イスラムはすべての宗教の中で最もラディカルな一神教だ。イスラムは誕生してからずっと、侵略と虐殺の戦争をくりかえしてきた。イスラムが存在しているかぎり、世界が平和になるわけがない。アラブ人にも数学者、詩人はいたかもしれないが、それは彼らがあまり熱心な信者ではなかったからだ。誰だってコーランを読めば、あの独特のトートロジー、「唯一の神をおいてほかに神なし」、などといった嘆かわしいムードに唖然とせずにはいられない。いわれるとおり、一神教への道は一般民衆を白痴化する道にほかならない。もっとも砂漠のなかだけの話なら、それでよかったんだがね。
 「それならカトリックはどうか?じつによくできた宗教だ。カトリックは人の本質がどういうものかよく知っていた。それで初期の教義が課した一神教からすぐ離れた。イエスが考えもしなかった三位一体の(ギリシア幾何学の)ドグマ、マリアと聖人の崇拝、地獄の鬼の役割の認識、天使の発明、などを通して徐々に正真正銘の多神教を確立していった。だからこそカトリックはゲルマンやイスパニアやロシアの伝統宗教を自分の長い腕の中にすっぽりと入れることができたのさ。