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加藤周一 『日本人の死生観』(岩波新書)1/2

 近代日本知識人の「自分の死」に関する考え方を、乃木希典森鴎外中江兆民河上肇正宗白鳥三島由紀夫の6人を選んで、ケーススタディとして述べた本。そのうち特に興味深かった乃木希典三島由紀夫について――二人はともに割腹自殺した――いくつかのパラグラフを抜き書きする。

 

 乃木希典――天皇の武士

 上巻p53-4 

 1887年西南戦争が始まるとともに、乃木は政府軍の大兵力の一翼として、連隊を率いて小倉から出陣した。乃木は2年前の萩の乱で、敵側にいた弟や恩師への思いのせいで戦いに没入できず、上官から厳しい叱責を受けていた。来たるべき戦闘はこの時の屈辱を忘れるためにも武勲を立てる好機だった。
 しかし乃木は血気にはやりすぎ、沈着さを欠いていた。西郷軍に包囲された熊本城に連帯を率いて向かう途中、山中で敵兵力と衝突する。激戦の中で乃木軍の旗手が戦死し、新政府の象徴として天皇から授けられた軍旗を反乱軍に奪われた。乃木は衝動的に自分から先頭に立って軍旗を奪い返そうとしたが、部下に抱きとめられた。戦闘のさなかに軍旗を探し求めることは、必ず死を意味していただろう。軍旗喪失という不祥事に対して山形有朋は極刑を主張したが、直属の上官が乃木の勇敢さを認めて擁護し、この件については処罰されずに終わった。

 p64-5

 1894年の日清戦争で、日本軍は旅順を簡単に攻略していた。だから1904年の日露戦争でも、大本営はロシア太平洋艦隊の立てこもる旅順港をすぐに落とせるものと見ていた。しかしそれは見込み違いだった。乃木の第3軍はロシア軍に3回の総攻撃をかけたが、旅順はまったく落ちなかった。ロシア軍の機関銃掃射によって日本軍の3分の1の兵隊がなぎ倒されただけだった。東京では「無能無策」の将軍が若者を無意味に殺していると非難の声が高まり、乃木の住宅は投石を受け、妻が外出すると「あなたの良人は国家の悪玉である」と罵られた。
 失敗に失敗を重ねた末、乃木は旅順港を見下ろす203高地に兵力を向けた。この作戦は元来大本営の方針だったのだが、正面攻撃を好む乃木がこの方針を先には拒否していた。しかし方針を変更した203高地攻略作戦でも、乃木の日本兵は倒されるばかりだった。
 旅順における乃木の屈辱の極みは、ついに203高地を落とした攻撃が彼の指揮する作戦ではなかったことである。満州軍総司令官元帥の大山巌は乃木には旅順を陥落させられないと見て、総参謀長児玉源太郎を派遣し、乃木に代わって攻撃の指揮を命じた。その結果旅順は1週間で日本軍の手に帰した。しかし、乃木の名声をおもんぱかって、当時以後太平洋戦争終結まで、この指揮権交替は公表されなかった。

 p79

 乃木の殉死は、彼の一生が有効だったことを自分と周囲に示すための手段だったといえる。彼は、自分が周囲の人々を裏切ったという罪の意識に対抗するために、絶対の権威を必要としていた。明治天皇はその絶対権威の象徴だった。だから、肉親と友人のために死ななかった彼は、自分が歩んだ道が人間としての基準にかなっていたことの証明として、天皇のために死ななければならなかった。おそらく乃木は明治天皇の大喪の日に自ら死刑執行するつもりで、ながいこと天皇の死を待っていたのではないか。
 切腹することで彼は、理想にしていた(つもりの)真の武士としての自分のイメージを通用させ、それまで責められていた過失、罪、能力の足りなさの感情から免れた。軍旗喪失に終わった西南戦争での無謀な攻撃の償いをした。機関銃の威力を知るだけに終わった旅順における3回の血塗られた正面攻撃の愚を償ったのだ。

シェイクスピア 『リチャード三世』(新潮文庫)

 『リチャード三世』はシェイクスピアにとっては初期の習作にすぎなかったということだが、客入りや出版では大評判をとっていたらしい。1594年の初演に使われた四折り本が1623年の最初のシェイクスピア全集までに六度も版を重ねているそうだ。その人気の理由を福田恒存が「解題」に書いている。
 「それはこの脚本が単なる復讐劇ではなく、劇のもっとも本質的なものの上に立っているからである。個人の意思を超えた大きな運命の流れが作品を一貫していて、自分だけはそれから免れていると思っている人物たちが、次々とその罠に陥り、彼らが意識の外で不用意に洩らした言葉が必ず自分の頭上に降りかかってくる。
 「そしてリチャードは、自分だけは運命の手から逃れていると、誰よりもそう思っている。薔薇戦争の時代、自分が属するヨーク家の親族やその女、幼い子供までも謀殺し、人々の運命を操っているといるのは自分であり、のみならず自分の運命さえ自由にできると思っているリチャードが、最後に、もっとも完璧に、追いやった者たちの反乱連合軍に破れて、自分の運命の存在証明をする。そういう悲劇的アイロニーそのものを表出するためにこそ、この劇は書かれているとさえいえる。その点でこの劇は非常に論理的であり、読者あるいは見物の倫理観と心理を満足させるものとなっている。」

 p170-1

 薔薇戦争最後の勝者であるリチャード3世は、敵王やその息子、弟や、多くの臣下を無慈悲に殺害した。先王の母エリザベスはリチャードを地獄の手先と呪うが、図に乗ったリチャードはあろうことか彼女の娘を自分の嫁にくれと迫る。「今日までのあなたの悲惨は明日の栄光の下地なのだ、嫁が自分の子を産んでくれれば、あなたは皇太后になり国の母になるではないか」と、運命の司祭であるかのような詭弁を弄して。
 リチャード : もしこの身がイングランドを横取りしたと言われるなら、、それをあなたの娘御にお返しして、せめてもの埋め合わせをしよう。あなたのお子達をこのリチャードが殺したと言われるなら、それを生き返らせるため、残った娘御にこの身の子を産んでもらい、あなたの血筋を立てるという手がある。おばあ様と呼ばれれば、お母様と優しく呼びかけられるのと、情愛に変わりはありますまい。子供は子供、位が一桁違うだけ、同じあなたの血筋だ。
 あなたの失ったのは、ただ息子の王位だけだ。その代わり娘御のために妃の位が贖える。この身がどんなに償いをしたいと思っても、いまさらどうにもならぬとすれば、この精一杯の気持ちだけでもお受けいただきたい。
 あなたは再び国王の母君、悲惨な過去は娘が王妃となりあなたが国母になる二重の幸せで、ことごとく償われようというもの。今日まで流してきたあなたの涙は、一滴一滴、きらめく真珠の玉となって、その手に戻ってこよう。失った金が十倍、二十倍の幸福の利子を背負って戻ってくるようなものだ。さあ母上、一刻も早く娘御のところへ。まだ恥ずかしがる年頃だ。そこはあなたの年の功、せいぜい馴らしておいてください。愛の言葉を聞いても驚かぬように下話をしておいていただきたい。・・・・

 官軍のエゴイズム、敗将の母后をいたぶる醜さをこれほど露骨に描いたものがあっただろうか。2年後、リチャード三世は味方の裏切りに遭い、自ら斧を振るって奮戦したが戦死した。遺体は、当時の習慣に従って、丸裸にされ晒されたという。

シェイクスピア 『ジュリアス・シーザー』(ちくま文庫)

 この芝居、タイトルが『ジュリアス・シーザー』だから、シーザーが主役かと思っていたら違った。シーザーはただの殺され役だ。主役は『アントニーとクレオパトラ』でクレオパトラに溺れたあげく、オクタビアヌスに大敗して自殺したアントニーである。自分の栄達のためには肉親すら売ってしまうアントニーの人物像を際立たせるため、シーザーを白昼の議事堂で暗殺したブルータスがアントニーの罠に落ちる好人物として、悲劇的に描かれる。
 ブルータスは、シーザーを王位への野心ありとして刺したのだが、暗殺直後の一部市民の歓喜を見てそのクーデターが多数に支持されたと勘違いしてしまう。そしてつぎのような簡単なスピーチをしただけで、市民の歓呼に送られて自宅に帰ってしまう。
 ブルータス: 善良な同胞諸君、事をなしとげた私は少し疲れている。家に一人で帰らせてくれ。シーザーは野心家だったが偉大だった。これからそのシーザーに敬意を表し、シーザーの忠実な将軍だったアントニーが追悼の演説をする。その言葉を聞いてくれ。アントニーは、シーザーの数々の栄誉について、われわれの許可を得て演説する。アントニーが語り終えるまでだれも帰らないでくれ。


 かつては勇猛で名を馳せたアントニーだが、芝居の前半では三度も跪いてシーザーに月桂樹の王冠をささげようとし、そのたびごとにシーザーが(表向き)払いのけるという茶番を演じるお調子者に描かれている。だからブルータスのクーデターを喜ぶ市民から見れば、追悼演説するアントニーの立場は非常に微妙である。普通にやればおべっか使いか命惜しさの卑怯者として、市民に逆に断罪されかねない。
 しかしお調子者の内股膏薬という人種は、自分を守る巧妙な<言葉>の手立てを、いつの時代も持っている。以下の見事な追悼演説でアントニーは市民の心をつかんでしまう。市民の移ろいやすい心をつかむことなど雄弁家にとっては朝飯前のことである。
 アントニー: ローマ市民諸君。諸君の前で私の信用の足場は、いま非常に滑りやすい。だから、いま何を言えばいい。ローマに栄光をもたらしたシーザーをたたえても、彼に野心ありとしてシーザーを倒したブルータスを愛すると言っても、どちらに転んでも私の評価はひどいものにならざるを得ない。
 シーザーよ、あなたの霊魂がいま我々を見下ろし、忠実だったアントニーがあなたの敵の手を握って和解するのを見れば、その嘆きはあなた自身の死を嘆くより激しいのではないか。
 ・・・ブルータスはシーザーが野心を抱いたという。そしてまぎれもなくブルータスは高潔な人物だ。私はブルータスの言うことを否定するつもりはない。ただ知っていることを言うためにここにいるだけだ。諸君はかつてシーザーを愛した、愛するだけの理由があった。ならばいまどんな理由があって彼を悼もうとしない?つい昨日まで、シーザーの言葉には全世界を敵に回してもひるまぬ力があった。だがいま彼はそこに横たわり、諸君の内うち最下層のものですら敬意を払おうとしない。それはなぜなのだ!
 ああローマの市民諸君!仮に私が、諸君の心情と意思をあおり、狂乱と暴動に駆り立てたいと思っているなら、私はブルータスを裏切り、ともに命を賭けたキャシアスらを裏切ることになる。諸君も知ってのとおり、彼らは高潔だ。私は彼らを裏切りたくない。死者を裏切り、私自身や諸君を裏切るほうがいい。
 ところでここにシーザーがみずから封印した文書がある。彼の書斎で私が見つけた。彼の遺書だ。この中身を諸君が読んだなら、諸君は横たわるシーザーに駆け寄り、傷口に口づけし、シーザーの聖なる血にハンカチをひたすだろう
 市民たち: 遺書だと、中身を聞きたい。読んでくれ、マーク・アントニー。
 アントニー: こらえてくれ、心優しい友人たち、読んではならないのだ。英雄シーザーが諸君をどれだけ愛していたか、諸君は知らない方がいいのだ。諸君は人間である以上、ローマ史上最も公正で偉大だった英雄・シーザーの遺言を聞けば、怒りが燃え上がり、半狂乱になるだろう。諸君がシーザーの相続人であることを、諸君は知らない方がいいのだ。知ったら最後、ああどうなることか!

 このあと市民たちはシーザーの遺体をどこかに運び去り、家々に火をつけ暴動に走る。知らせを受けたブルータスとキャシアスたちはローマから逃れるが、オクタビアヌスとアントニーの連合軍に破れ、ブルータスは部下に持たせた剣の前に自分で倒れこんで自害する。

中沢新一 『レヴィ=ストロース・野生の思考』(NHK100分de名著)

 「NHK100分de名著」とは、「世界の名著を読もう」的な教養番組のための薄い教科書シリーズ。地デジ2チャンネルで放送されているらしい。そのうちの一冊である中沢新一氏のこの本をたまたま本屋で見つけ、パラパラめくっていたら、あの難しいレヴィ=ストロースの『野生の思考』が寝ながらでも分かるようにレクチャーされていた。

 p16-7

 構造主義の最初の着想

 人間の思考は自然が作り上げたものです。宇宙の全体運動の中から地球が生まれ、地球に生命が誕生し、生命の中から脳細胞がつくられ、そこに精神が出現するようになります。精神というモノが自然から生まれたからには、精神の秩序は、そこから自分が生まれた自然界の秩序と連続性を持っているのではないか。
 しかしそこには両者をへだてている非連続性があることも事実です。この連続性と非連続性を同時にとらえることができないだろうか――。それが最初の構造主義の着想でした。自然界の中から生み出された生命の延長上に生まれる「人間の精神」の構造。この精神の構造と自然界の構造を、一つの全体としてとらえることで、精神の秘密にせまろうという思想です。

p47-8

 ありあわせの野生知財をブリコラージュ(つぎはぎ)してヒトは前に進む

 6~7万年前の後期旧石器時代に人類の脳構造に飛躍的進化が起き、クロマニヨン人などのホモ・サピエンスが、脳構造が変わらなかった「旧人」を駆逐しました。それ以来人間の脳の構造は変化していません。6~7万年前の後期旧石器時代が呪術を行っていたのとまったく同じ脳が、いま量子論や宇宙物理を思考しています。新石器革命を通じて、旧石器的知識の組織化が行われ、それ以降、現在まで文化は大きく変化しました。
 それでもそこで活動する知性は6~7万年前の知性と同じものであり、呪術を行っていた人類と科学を行っている人類は、同じ心の構造を持っています。その「同じ心の構造」を例示するものの一つに「ブリコラージュ」があります。ブリコラージュとは「日曜大工」とでも訳せばいい言葉で、<ひとはある新規なものを突然作ることはできない。誰でも身の回りにある材料を再利用し、それらを組み合わせながら自分のイメージに近いものに仕上げていく>という意味です。
 あのニュートンにしても『プリンキピア』を書き上げた後の興味の対象は錬金術占星術にありました。古代エジプトの時代から少しずつ工夫され改良されてきた(現代から見れば幼稚そのものに見える)知的財産身をさまざまにブリコラージュして、(現代科学が迷信の代表として激しく糾弾する)星占いと錬金術に没頭し、新しい宇宙像をつくろうとしていたのです。

 p6・79-81

 レヴィ=ストロースの『野生の思考』が戦いを挑んだのは、19世紀のヨーロッパで確立され、その後人類全体に、とくに政治家、経済人のほとんどすべてに大きな影響力をふるってきた「歴史」と「進歩」の思想です。
 「歴史」と「進歩」の思考方法は、現在でも変わらずに大きな影響力を持ち続けています。右の人々も左の人々も、根底では同じ「歴史」と「進歩」の思考によって動かされています。この点では右も左も同じなのですが、彼らはこのことに気づいていません。今の「進歩」を500年続ければどこに行きつくのかに気づこうとはしません。
 私たちはいま、コンピュータを身近にもつようになりましたが、人類の思考は6~7万年前の突然の進化によって、最初から完成されていました。人類が人類となったそのときにつくられた脳の構造を、私たち現代人もいまだに使って思考しているのです。コンピュータはそういう人類によってつくられたものですから、コンピュータという思考機械も基本設計は、<身の回りにある材料を再利用し、それらを組み合わせながら自分のイメージに近いものを仕上げていく>あの「ブリコラージュ」という「野生の思考」を行う脳と少しも変わりません。なぜなら、地球上に発生した生命の中に知性が生まれ、それはついには人類の知性にまで発達しましたが、その進化の過程はすべて地球の内部で起こったもので、外から何かがやってきたおかげではないからです。生命は自分の手持ちの材料とプログラムだけを用いて、それらの組み合わせを新しく作りかえることだけによってしか、進化をなしとげることはできません。
 そういう意味で、「歴史」とか「進歩」とかは、神経線維の情報処理によって出力されたただの前のめりの「観念」であり、コンピュータという「野生の思考」を行う機械が画面上に映し出した「文字」にすぎません。「歴史」とか「進歩」とかは、生命として体内から発する材料でもなければ、体内から発するプログラムでもありません。

 

丸山真男 『「文明論の概略」を読む』上(岩波新書)2/3

 第3講 西洋文明の進歩とは何か――野蛮と半開

 上巻 p104、 106−7
 「御殿女中根性」が幅効かせる半文明化社会
 福沢は幕末維新期の日本を野蛮期と文明期の中間段階にあるとしています。特色ある考えではないのですが用いられている言い方が興味深い。とくに社会関係について <人間交際については猜疑嫉妬の心深しと雖も、事物の理を談ずるときには疑を発して不審を質すの勇なし。> 猜疑嫉妬の人間不信が強いのに、それを言葉にして問いただす勇気がないということ、すなわち「怨望」の念に支配されている人が多いという。
 簡単にいうと御殿女中根性です。福沢は『学問のすゝめ』の一篇でこの「怨望」を口をきわめて攻撃していますが、そこでも具体的なイメージモデルは御殿女中です。御殿女中の出世は殿様の気まぐれなご寵愛しだい。この社会では誰が殿様に気に入られるか、その見通しがまったく利かない。女中の個人としての才覚はほとんど何の役にも立たない。他人がお引き立てを受けても、客観的に認識する方法がないのだからそれに学ぶこともできない。そうすると、ただ羨むだけ、嫉むだけとなる。
 この社会では、つまりすべてが人間関係に解消される。物事を見ないでまわりの人だけ見ている。そして羨み、嫉む。人が自分より優位に立つとそれを引きずりおろして彼我の平均をはかる。福沢は、これはひとつには孔子の考えに責任があるという。孔子は「女子と小人は養いがたし」と嘆いたけれど、孔子たち身分のある男たちは女子や小人の輩を束縛して彼らの働きに自由を与えなかった、そのために怨望の気風が生じたので、孔子の嘆きは自業自得ではないかというわけです。

 第4講 自由は多事争論の間に生ず

 上巻 p156-7
 福沢は儒教文明を非常に問題視しています。自由の敵として儒教に対し、ほとんど憎悪に近い感情を持っている。儒教帝国としての清朝中国――こういう見方をしないと福沢の中国は理解できません。
 その中国の独裁皇帝政治にのありかたに関連して、福沢は日本の歴史で武家政治が出てきて皇帝親政を排し、<益々君上を神視して、益々愚に陥る災厄を防いだ画期的意味>を言っています。
 ところが福沢以後、近代日本の運命は福沢の命題にとっては皮肉なことになりました。私たちの世代が暗記させられた軍人勅諭に 「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」 といい、だから今後は朕が親しく兵馬の権をとる、そうして「再び中世以降のごとき失態なからんことを望むなり」とあります。軍人勅諭によれば、武家政治は中世以来700年間もの「失態」だったのです。軍人勅諭は福沢のこの本の出た数年あと、明治15年に発布されました。
 だから「侍」のエートス軍人勅諭を基礎とする近代日本の軍人精神とは非連続なのです。後者の、国家による武装の立場から批判すれば、自己武装の原則に立った武士の存在は、700年間にわたる「失態」にほかなりません。武士道の連続的伝統を説く論者は、新渡戸稲造から三島由紀夫まで、そのへんをまったく混同しているように思われます。

丸山真男 『「文明論の概略」を読む』上(岩波新書)3/3

 第5講 国体・政統・血統―――国体の定義

 上巻 p167-8
 幕末・維新期は西欧列強の帝国主義政策によって日本の独立が激しく揺さぶられたときでもありました。いわゆる「国体」の維持をめぐる大変な時期です。この「国体」という言葉ほど、日本の近代を通じておどろくべき魔力をふるい、しかも戦後、急速に廃語になった用語は少ないでしょう。福沢はこの「国体」について<その人民、政治の権を失ふて他国人の制御を受くるときは、国体を断絶したるものと云ふ>と明解な考えをあらわしています。ですから彼の定義によれば、日本はこんどの敗戦において国体は一時断絶したことになる。マッカーサー司令部の力に天皇が従属したのだから、国体は断絶した。この場合、君主がいても統治権を持たないのだから、国体が続いているとはいえない。
 ポツダム宣言受諾をめぐって最後まで御前会議で紛糾したのが、国体が変更されるかどうかということでした。あんなギリギリに至るまで、支配層の中でさえ国体についての定義が決まらなかったのです。明治以来それまでに定義が明白になっていたなら、もめることはなかった。
 ポツダム宣言ではただ「日本国の将来の統治形態は日本国民が自由に表明した意思によって決せられる」とあるだけです。日本側は「君主制は維持されるのか」と問い合わせます。そして連合国の回答はポツダム宣言を繰り返すだけでした。そこで、これを受諾することではたして国体が維持されるかどうかで最後まで解釈が分かれ、結局最後に、天皇が自分は護持されたと解釈するという「聖断」を下したので終戦が決まるのですが、宣言の解釈が決まらず、御前会議がもめているあいだに原爆が投下されたのですから、御前会議の不決断はずいぶん大きな犠牲を払ったものです。

 第6講 文明と政治体制―――政府の体裁のおける名と実

 上巻 p239・242
 福沢の政治論の基本命題は、<すべて世の政府は、ただ便利のために設けたるものなり>というものです。維新直後においては、大変にショッキングな命題だったはずです。
 今日では誰でもこの程度のことは言うでしょうが、これが書かれたのは、お上というものは絶対であり、お上のありがたい御恩のおかげで、私ども庶民は安穏に生活できるのだという考え方が、ほとんど疑いもされず通用していた時代です。君臣の義は五輪の筆頭に位し、それは人の天性であると朱子学が教えていた。
 それだけでなく、幕府のことを公儀というように、公というのが政府であった。そのように政治権力が絶対視されていた時代に、福沢は「政府は、世の人々が生活しやすいように、もろもろの制度や文物を整えていくためにだけ存在しているのだ」と大胆なことを言ったのです。
 ・・・・・・だから福沢は「君主制も必ずしも不便ならず、共和制も必ずしも良ならず」といって、政治は社会の一ファンクションにすぎないと念を押します。イギリスやオーストリア君主制がいいからと言って、清朝のそれもいいと言うわけにはいかない。アメリカの共和政がいいからといって、革命直後のフランスの苛烈な共和制にならうわけにはいかない、と。
 プラグマティストでもあった福沢は「名を争ふて実を害する」ことこそ、日本の深い精神病理である「惑溺」そのものである考えていました。もし福沢が現代に生きていたら、おそらく、「社会主義」国家や「民主主義」国家という名にとらわれてはいけない、とここで言ったでしょう。

丸山真男 『「福沢諭吉・文明論の概略」を読む』上(岩波新書)1/3

 名著の30年ぶりの再読。今の政治学者、メディアの論説家は「一党派に与せず」を臆面もなく旗印にする。その結果はもちろんメディア露出度の高い体制を擁護することになる。体制は、たまには失言したりするものの、たいていは耳触りのいい表現で時局を説明し、それを何度も繰り返すことで、大衆の過半数は納得した気になってしまうものだからだ。
 かれらは丸山のような批判精神を「エビデンスに乏しいからポリティカリー・コレクトではない」とする。秀才の彼らはエビデンスをネットで探し回って、おしゃべり人形のように多弁であるが、その言説はグーグルの人工知能が書いた文章のように魅力がない。
 『文明論之概略』は福沢諭吉ほとんど唯一の体系的文明論書である。明治維新のわずか8年後、民心の気風がまだまだ江戸時代を離れなかったとき、その闊達にして大胆な文章であらわされた自国文明に対する深い憂慮は、和魂だ、洋才だと騒ぐばかりの知識階層を驚嘆させた。

序章 古典からどう学ぶか

 上巻 p4-6
 いわゆる古典離れの背景には二つの要素があります。ひとつは古典が持つ「客観的な規準」、「確立された形式」と、それに対する日本人の「内発的なエネルギー」の無定形性という要素。いま一つは、新品・新型を絶えず追いかけていないと時代遅れになるという心理傾向。この二つはなにも「今どきの若いもの」に限られたことではありません。
 この読書会でそういう日本文化論を述べ立ててもキリがありませんが、簡単に私の独断を言えば、そもそもわが国の文化に規範とか形式性を与えたのは、古代では中国であり、近代では西欧だったという事情があげられます。
 つまり学問でも芸術でも客観的形式とか、典則という意味でのクラシックはもともと外国由来のものだったわけです。だからどうしても、そうした形式への反逆は、「外来」対「内発」という、本来の問題の次元とは別の次元の問題にすり替わりやすい。そうして、日本の内発性の探求は無定形(アモルフ)なエネルギーもしくは「構成」以前の情念の流れに行き着き、そこに「日本人」の本源的なものを見ようとします。
 形式への反逆は、いうまでもなく西欧ではロマン主義的思考の特徴ですが、日本では「三史五経のみちみちしきかた」(紫式部)への違和感の方が先行しているので、極端に言えば、日本では歴史的順序は古典主義からロマン主義へではなくて、むしろ「はじめにロマン主義ありき」ということになってしまいます。

 いや古典離れはそんな長い由来に根ざしているのではない、現にわれわれの時代はもっと東西の古典になじんだものだ、という異論が戦前・戦中派から出されることがあります。とくに旧制高校をなつかしがる人たちから出そうです。
 10年前にわたしはフランクフルトにあるゲーテ・ハウスに立ち寄ったことがあります。そこに訪問者の記帳簿があったのですが、わたしが驚いたのは日本人の名前が非常に多いだけでなく、立派な肩書の付いた名刺が残されていることでした。こういう人たちはさだめしこの記念館に立ち寄って、たとえ『ファウスト』でなくても『若きウェルテルの悩み』とか、エッケルマン『ゲーテとの対話』を読んで、友と熱っぽく語り合った思い出にしばし浸ったことでしょう。
 しかし、何々省何々局長や何々会社代表取締役という方々にとって、青春時代の古典の読書は単なる「ナツメロ」になっていないでしょうか。古典への親しみなるものが、多くは「俺も昔は読んだものだ」という一過性現象であるところに、旧制高校的「教養主義」のひ弱さがあるように思います。読書量の何パーセントが実際の精神活動のエネルギーになっているかという入力と出力の比率をとってみると、「今どきの若いもの」を貶してばかりいられないような気がします。

 第1講 幕末維新の知識人
 上巻 p33-5
 福沢諭吉は天保5年に生まれています。天保というのは江戸末期のなかでは珍しく15年も続いた年号ですから、天保生まれの著名人はなかなか多い。「天保の老人」という有名な言葉があります。
 天保の老人、つまり福沢と同世代にどういう人たちがいたか、思いつくままに挙げてみます。まず吉田松陰。福沢よりわずか四つ年上です。橋本左内は同年。坂本竜馬は一つ下。高杉晋作は五つ下、久坂玄瑞は六つ下。つまり安政の大獄や維新までの動乱の中で死んだ志士たちは福沢と同世代なのです。明治の元勲といわれる人も圧倒的に天保生まれです。大久保、木戸をはじめ、山形有朋、大隈重信伊藤博文井上馨松方正義黒田清隆、みんなそうです。西郷隆盛だけがちょっと年長です。
 坂本竜馬高杉晋作が福沢と同年あるいは年下というのはちょっとイメージしにくいのではないでしょうか。福沢の維新直後の書物がベストセラーとなり、しかも彼は明治34年まで生きているのですから、福沢というと明治の人で、幕末の志士たちとは時代が一段階ちがっているように思われています。
 一方、「天保の老人よ、去れ」と言った徳富蘇峰明治維新の直前に生まれており、その少し上に三宅雪嶺がいます。文学者でいうと、北村透谷、徳富蘆花明治元年田山花袋島崎藤村徳田秋声が明治4、5年に生まれています。なぜか自然主義派が多い。この人たちは幕末維新の大変動をほとんど知らない、はじめから「明治の御世」に生まれた世代です。(ちなみに夏目漱石は維新直前の生まれ。漱石が福沢に言及したことはまったくないということだが、『吾輩は猫である』などの厳しい時代批判には、福沢の本書を下敷きにしているらしいところがいくつもある。)
 この二つの世代の間に自由民権のイデオローグたちがいます。中江兆民は福沢より12歳下、馬場辰猪は15歳下、植木枝盛は22歳下です。今日から見ると植木枝盛と福沢は同じ時代のように見えますが、22歳下といったら、これはたいへんな違いです。福沢を読むときはこれらのことを心にとめておくといいと思います。