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ジャック・モノー 『偶然と必然』(みすず書房)1/3

 現代分子生物学に画期的な業績を残したジャック・モノーの古典的名著。30歳ころに読んで以来の再読。1970年の発刊と同時に大ベストセラーになり、訳者がパリ空港の本屋をのぞいたときは最前列に30冊あまりも並べられていたという。門外漢には難解なところのある分子生物学の分野だけでなく、現代科学一般を広く見渡したうえでの文明哲学議論を含むこの本が、空港の売店で平積みされているという風景は、訳者があとがきで言っているように、ただいま現在はもちろんのこと半世紀前の日本にもあまり見られなかったのではなかろうか。

 

表紙ウラの梗概からの抜書き。

 生物の特徴は(細胞、組織、器官をつくるときの)遺伝情報の不変の複製と伝達という合目的的な活動にある。だが、この機械的ともいえるような保守的、合目的的なプロセスの中に、「進化」はどのようにして根を下ろして新しい種を生物圏の中に送り出すのだろうか。その大きな要因は、不変な情報が微視的な偶然による擾乱を受けることにある。この、偶然に発した情報は、合目的的な機構により、あるいは取り入れられ、あるいは拒否され、さらに忠実に再生・翻訳され、その後、巨視的な自然の選択を経て必然のものとなる。
 このような中心思想に立って、ギリシア哲学と近世ヨーロッパの観念論哲学にも詳しいジャック・モノーは、約50万年の昔から思考力の進化を続けてきた人類についての重大な問題に大胆で挑戦的な試論を展開する。本書の随所で、とくに現代に影響力を持つヘーゲルマルクスベルクソン、ティヤールなどの思想を俎上にのせ、これらは生気論、物活説の一種にすぎないとして退けている。

  序 p3-5

 今日の分子生物学は、あらゆる科学の中で人間に対してもっとも意味を持つものであり、他のいかなる科学よりも現代思想の形成に寄与していることを疑う人はおそらくあるまい。現代思想は哲学、宗教、政治などのあらゆる分野で、分子生物学を武器とするネオ・ダーウィニズム進化論によって根底からくつがえされ、その核となる「遺伝の物理理論」の爪跡を残されている。
 遺伝暗号の分子論はいま全生物学を支配していると言っていい。私は「遺伝暗号の理論」を広義に解釈するが、その理由は、遺伝物質の化学構造とそれが伝える情報に関する考え、さらにはその情報の形態発生学的、生理学的表現の分子的機構をも、その中にふくませたいからである。このように定義すると、遺伝暗号の理論は生物学の本質的な基盤をそのものであると言っていい。
 もちろんこのことは、生体の構造や複雑な機能がすべてこの理論から演繹可能であるということではない。だが今日、暗号理論が生物圏のすべての問題を予見したり解決したりすることができないとしても(おそらく将来も決してできないだろう)、分子生物学が現れる以前にあった科学知識の中には、これに類するようなものは一切なかった。
 当時「生命の秘密」は、本質的に近づきがたいものとされていた。しかし今日では多くのベールがはがされている。ひとたびこの理論の一般的意義と影響の規模が専門家以外の人々によっても理解され、評価されるようになれば、この重要な出来事は現代思想に大きな影響を与えるようになるだろう。

 第2章 p41-3 弁証法唯物論者たちの時代的限界

 マルクスエンゲルスは社会の変動を分析するのみにとどまらなかった。彼らは弁証法のうちに、たんに社会及び人間の思想の中ばかりか、人間の思考が写し取ろうとする外界の中にもはたらいていると考え、その変化の一般法則を見出そうとした。
 弁証法唯物論者たちが、あらゆる種類の批判的認識輪を排斥して、これらをいつも「観念論的」とか「カント的」か形容するようになったわけは、科学に上のような「完全な認識」を要求してやまぬマルクスたちの態度から説明がつく。
 たしかに、科学が初めて爆発的に進歩した時代に生きた19世紀の人たちがこのような態度をとったとしても、ある程度まで納得が行く。当時にあっては、人間が科学のおかげで自然を直接に支配するようになりつつあり、自然の実質そのものをわがものとしつつあるように思ったとしても、確かにもっともな話であった。なぜならニュートンの重力というものが自然の深奥を極めた法則であるのを、当時だれひとりとして疑うものはなかったのである。 
 しかし周知のとおり、その後、第2期の科学すなわち20世紀の科学は、19世紀科学の認識の源泉そのものへ復帰することによって、まず準備された。徹底的に批判的な認識論が、認識の客観性の条件そのものとして絶対に必要であることが、はやくも19世紀末には(デカルト以来)ふたたび明白になった。それ以後ずっと、この批判に従事するのは哲学者ばかりとは限らず、科学者もまた、これを理論の緯糸そのもののなかに組み込まざるをえなくなった。いま私たちの認識論の基底にある相対性理論量子力学は、このような時代背景の中で発達できたのである。

丸山真男 『現代における人間と政治』(岩波全集第9巻)

 p33-7

 1930-40年代のドイツ社会と第2次大戦後のアメリカ社会を比べれば、似ていたと言う人よりは違っていたと言う人のほうがはるかに多いだろう。しかし1952年、マッカーシー赤狩りの嵐が吹き荒れ、社会全体のコンフォーミズム(体制同調の空気)に嫌気がさしてチャールズ・チャップリンはアメリカを去ったし、ほかならぬナチの世界から逃げてきたトーマス・マンも戦後ふたたびスイスに移った。その地でまもなく生涯を終えたマンの回想の一節は痛ましいものである。
 「私は78歳でもう一度生活の地盤を変えた。これはこの年齢では決してささいなことではない。これについて私は認めざるを得ない、ちょうど1933年に似て、この決断にはアメリカの政治的なものが関与していたことを。あんなにも恵まれた国、巨大な強国にのし上がった国の雰囲気にも、心を締め付け、憂慮をかきたてるような変化が来た。 
 忠誠と称するコンフォーミズムへの強制、良心に対するスパイ、不信、悪口を言い立てるための教育、政府にとって好ましくない学者に対する旅券交付の拒否・・・・異端者を経済的破滅につき落とすやり方―――アメリカではこれらがすべてが日常茶飯事になってしまった。・・・少なからぬ人々が自由の滅亡を恐れている。」

 ・・・けれども、マンの警告も、チャップリンの風刺も、当時のアメリカ市民の多数にはせいぜい「おどかし屋」の、もっと悪い場合には「アカの一味」の中傷としてひびいただろう。あのナチズムの支配でさえ、それが最後の狂気の一歩手前にくるまで、多数のドイツ人住民には昨日と今日の光景がそれほど変わって見えなかった。マッカーシー旋風の下にある繁栄時代のアメリカ市民にはなおさらである。
 「自由だと思っている」圧倒的多数の――したがって同調の自覚さえない同調者の――イメージの広く深いひろがりの中で、社会の中心を少しはずれた異端者の孤立感は大きくなるばかりだったに違いない。

 ・・・すでに100年以上も前に、トクヴィルは、民主社会においては、そこに生きる人々の平準化の進展が、一方での「国家権力の集中」と他方での「狭い個人主義の蔓延」という二重進行の形をとることを見通していた。いわく、平準化の進行した社会では、個人はそれまで人々が日常生活を送ってきた中間諸団体での居場所を失って、ダイナミックな経済社会に素裸状態で放り出されることになる。そのためパブリックな事柄に関与しようとする思いを失い、日常身辺の営利活動や娯楽に生活領域を局限するようになる、と。
 トクヴィルのこのあまりにも早熟な洞察に、当時よりはるかに「歴史を進めたはず」のわたしたちは、なさけないことに誰も反論できない。

丸山真男 『偽善のすすめ』(岩波全集第9巻)

 p325-8

 なぜ偽善をすすめるか。動物に偽善はない。神にも偽善はない。偽善こそ人間らしさの象徴ではないか。偽善にはどこか無理で不自然なところがあるが、しかしその無理がなければ、人間は坂道を下るように動物的「自然」に滑り落ちていたであろう。

 日本のカルチュアのなかでは偽善の積極的意味はさらに大きい。江戸時代において、偽善に対してもっとも痛烈な批判を行った思想家が「なにくれの道、かにくれの教」をすべてからごころとして否定した本居宣長であったことは偶然ではない。
 たとえば宣長は言う。<世の法師などの仰がるる人、あるひは学者などのものしり人、月花をみてはあはれとめづる顔をすれど、道行くよき女の顔みてはそしらぬ顔して過ぐるはまことや。もし月花をうるはしとめづる心あらば、など美しき女に心の動かざらん。例のいつはりなり>――これはまさしく後世の文学者や「庶民的」評論家が「謹厳な大学教授」の偽善をからかうステレオタイプの原型である。

 ・・・つまり、われわれの精神風土においては、「偽」善の皮をひんむいてゆくと、その奥にいつもきまって、善ではなくて、官能――それがどのように洗練されたものであれ――が「本性」として現れることになっている。自然主義が裸体主義になり、「人間的」なつきあいが「無礼講」に象徴されてきたことに、何の不思議があろうか。ここでは露悪的にふるまうことが実はもっとも安易に周囲の信頼を得る途なのである。

 上のような日本のカルチュアは、われわれの社会行動が「演技性」に乏しいこと、それだけでなく、演技的行動の中に「まごころ」ならぬ不純な精神を嗅ぎつける傾向があることと無縁ではないに違いない。
 ・・・さらに勝手に憶測をすすめれば、わが国の人々が政治行動を苦手とし、政治感覚に欠けていることが思い合わせられる。政治こそはまさに高度な演技の世界だからである。シェイクスピアの国のイギリス人は伝統的に(巧みな交渉術をもって鳴る)ステイツマンシップの国であり、その政治感覚は(生真面目な)ドイツ人の目には鼻持ちならぬ偽善として映ってきた当のものなのだ。
 ひるがえってアジアでは、われわれの国の隣に、宣長から偽善の本家本元と烙印を押された中国が控えている。その中国から古来われわれは、無気味なほどの政治的演技力を見せつけられてきたのではなかろうか。

アンドレ・ジイド 『ソヴェト旅行記』(新潮文庫)

 この本は1936年11月に上梓された。ソ連ブルジョア国家の人民にとって希望の国なのか、それとも世界中を共産化しようとする悪の帝国なのか・・・・。敗戦後数年した僕らが子供の頃にも、それはまだ小さなアタマの一部で一応考えなければならない問題だった。大きくなったとき自分の国はどっちの方に向かっているのだろうと。「どっちの方向に向かう」とはどんなことを指すのかということは、子供の僕にはもちろんまったく分かっていなかった。

 翻訳者・小松清によれば、この『ソヴェト旅行記』は刊行3か月でフランスだけで150版を超えたという。フランスだけでなく欧米各国や日本でも、思想界、政界、文壇、ジャーナリズムの世界に喧々ごうごうたる論議を呼び起こし、歴史に残る反響を呼んだ。日本では1937年に「中央公論」新年号に掲載され、その夏には岩波文庫から出ることになったが、3年後の1940年になって岩波は官憲から圧迫を受け、自発的に絶版せざるを得なくなった。ソヴェトに対する痛烈な国家体制批判という点では、日本の治安当局は何も問題にしなかっただろうが、この書が同時に当時の日本を覆いつつあった国家主義全体主義ファシズムに対する辛辣な告発を含んでいることにまことに遅まきながら(!)気付いたのだ。1940年に絶版となったときは、すでに多くの部数が発行済みであり、この僅か100ページほどの小著は当時の日本のインテリや学生、一部労働者の間で最も読まれ、最も反省を促し、影響を与えた書物となっていたそ。

 この『ソヴェト旅行記』には、僕が子供のころに理解すべくもなかった「国がどっちの方向に向かう」ということが誠心あふれる文体で書かれている。「どっちの方向」とは、国家が国民の良心の内側にも入りこもうとするのか、それとも外交、経済、治安という個人の良心の外側だけに専念するのか、という問題である。「誠心あふれる文体」というのはジイド自身がブルジョワ国家フランスを牛耳る保守階級の腐敗を慨嘆し、歴史上初のソヴェト体制に希望を見出した人だったからである。

 ジイドは自分の希望がかの地で実現されていることを確かめるために、ソヴェト政府の招きで数人の友人とともにモスクワ、レニングラード等に1か月の見聞旅行をする。そして現地で、革命教育に洗脳された青少年の分列行進を赤の広場で見、いまの状況に自足しきった青少年の言葉を聞くようになる。国営農場では、収容所のように狭いどの家にもスターリン肖像画が貼られている。街中では、粗悪な生活必需品買い出しのための行列がどこにでもできている。
 それでいてジイドが一般の人たちにどこで話しかけても、彼らは必ず嬉々とした表情を浮かべてプラウダの見出しのような返事を返す、「俺たちの文化はいまはまだ100%ではない。政府の指導によってこれからすばらしく発展するんだ」と。しかもこの人民の政府賛同は諦めによって得られた受動的なものでなく、自発的な真摯なものであり、さらにいえば熱狂的なものであるように感じられるのが、国家と個人を峻別しようとする西欧人・ジイドにはショックだった。

 国家が個人の良心に踏み込む――中世のキリスト教会は個人の良心に踏み込んだがそれは「魂の王国」の問題であり、「肉体の王国」にそのようなことは許されていなかった――という経験を持たないジイドの悩みは深刻で、1936年8月にフランスに帰国するとすぐジイドはこの旅行記を書き始めている。ただちに書き上げ11月に出版した。このスピードがジイドの衝撃と危機感をよく表している。
 この2年後に、個人のすべてをまるごと抱え込もうとする点では何も変わらない二人の狂人・ヒトラースターリンの死闘がはじまる。

アンドレ・ジイド 『法王庁の抜け穴』(新潮文庫)

 アンドレ・ジイドは死後、著作がすべてローマ法王庁から禁書に指定された。『狭き門』では恋人の神への自己犠牲の心を、それは真に率直な人間精神ではありえないとし、キリスト教の偽善に抗議し続けた。1951年に没したが、20世紀全体にわたって日本でも、とくに学生は、何冊かを読まなければならない人だった。この作品も冒頭から、カトリックの事大主義に対する冷笑がところかまわず出てきて、私のような坊主嫌いをスッキリさせてくれる。

 話が進むにつれて、百足組というチンピラ詐欺集団が法王を無理やり退位させ、いまは替え玉が位についている、という面白いネタが出てくる。よく似た陰謀事件が実際にあったらしい。この時代、陰謀といえばフリーメイソンなる実体不明の友愛結社の仕業と相場が決まっていたから、この百足組事件もフリーメイソンの策略だとされた。近世ヨーロッパでは知性があって少し変人の有名人はフリーメイソンを疑われ、トルストイゲーテも疑われた。あの鳩山由紀夫がそうだといわれたことは面白かった。

 それはともかく、サンピエトロ大聖堂には万一の場合に法王を脱出させる地下道が中世に造られており、百足組はそこに法王を監禁していると世間は信じたようだ。
 その世間の噂によれば、ひとりひとりの上流名家が何万フランも喜捨し、階級全体で莫大なカネを用意すれば元の法王を復位させることができる(!)。が、そのためにはパリとローマの枢機卿はじめ何階層もの高位聖職者にわたりをつけ、恐ろしいほどの宗教官僚の階段をジグザグに登りあるいは下らねばならない。そうやって初めて何ごとも最終的にうやむやになって法王が復位し、あやしい替え玉はいつの間にかめでたく消えてしまうことができる。キリスト教会制度は安泰が保たれ、この小説に登場する高貴な女性信心家たち(彼女たちは「ありがたや」とルビが振られている)のまことしやな心の平安が維持されるというわけだ。 

 保守派の信徒新聞はいつも「わたしたちは神に多額の借財がある。本紙読者の日曜ごとの喜捨はその万分の一の返済なのです」とまじめくさって書いている。その保守派業界紙の載せた下の論評が、この事件についての教会と信心家(ありがたや)たちの反応をよく表している。金はあなたのお寺にだけお払いなさい、というわけだ。

 p213

 信徒諸賢に、この際、切に御警戒ありたきことは、僧侶の仮面をかぶったフリーメイソン無神論者)の横行である。この男らはわれらが僧会の会員を偽称し、元法王救出の秘密の使命を帯びているごとく装いつつ信徒諸賢の信頼につけ込み、<法王救助十字軍>と名付けた企画のために金銭を搾取して回っている。かかる企画の名称を見ただけでも、すでにその事実の荒唐無稽であることは明らかといわねばならない。

  翻訳者・生島遼一によれば、ジイドの永年の友人である有名なカトリックの劇作家ポール・クローデルはこの作品を強く非難し、出版を思いとどまらせようとしたという。ジイドの攻撃が誠実なカトリック教徒であるクローデルの許容限度を超えていたからだ。しかし誠実という点では、ジイドもクローデルに負けない誠実な人である。

トーマス・クーン 『科学革命の構造』(みすず書房)

 パラダイムー変わりゆく時代の空気の下にある大きな方程式ーとはどういったものなのか。それを科学分野に限って、たとえばプトレマイオスの宇宙観がコペルニクスの宇宙観に変るという「革命」が起きたとき、その時代の学者の意識の中ではどんなことが起きていたのか・・・・・、著者はそこには常に変わらない<革命の構造>があるということを説く。
 科学哲学の名著だということだが、それほど難しいことを言っているわけではないのに、言葉づかいに昔のドイツ観念論のようなところがあり、また使う単語にも多義性があって、かなり読みづらい。以下の抜書きは、意味だけをとって、だいぶ書き変えている。

 p118-23

 17世紀の科学の伝統に与えたニュートンインパクトは、パラダイムの移行の際に起こる微妙な効果をみごとに示している。
 それ以前にあっては、スコラ学者は、石が落ちるのはその石の「本質」が、石をして宇宙の中心に向かって追いやるからだ、というような説明をしていた。ところが17世紀に入ると、デカルトなどが新しく機械的・粒子的な説明を行うようになり、いろいろな科学分野に大きな実りをもたらすようになった。
 ニュートンはこれらの結果を彼の運動法則の中に取り入れた。作用と反作用の力は等しいとする彼の第三法則は、二つの物体が衝突する際の運動量の変化の問題であり、デカルトなど17世紀の先人が作りあげた力学のパラダイムを受け継いだものである。そしてニュートンの仕事から生じるパラダイムの効果は、当時まだ命脈を保っていたスコラ科学の「正統」な規準に破壊的な変更をもたらした。
 重力を物質粒子間に働く引力と解するニュートン説は、アインシュタイン重力波方程式を知っている今から考えてみれば、スコラ学者の言う「落下の傾向」と同じような玄妙不可思議な説明である。しかし、ニュートンの粒子説の規準が効果を持つあいだは、彼の力学的説明は『プリンキピア』をパラダイムとして受け入れる人にとって最も魅力的な解答であった。18世紀の多くの科学者たちもニュートンにならった。彼の説明の「玄妙」性に違和感を覚える学者は数多くいたが、彼らとて重力をうまく説明できるわけではなかった・・・・・・・・。


 20世紀になってアインシュタインは重力的引力を説明するのに成功し、彼の一般相対性理論は科学を、言ってみればニュートンの先達に近い規準に復帰させた。さらにまた量子力学の発展は、18世紀の科学革命で確立されたかに見える方法上のタブーを逆転させた。いまや、量子力学を用いないでは、化学者は実験室でつくられる物質の結合状態をうまく説明できない。現代物理学における空間は、ニュートンの理論に使われたようなのっぺらぼうで均質な空間ではないのだ。
 この種の判断を長期間にわたって正当化する大きな理論は何も存在しない。実際に起こったことは、基準の絶対的な正誤とは関係がない。ただ新しいパラダイムを多くの人が採用したから変化が生じただけである。そしてこの変化は、さらに逆転することがあり得る。

巴 金 『寒い夜』(岩波文庫)

 舞台は日中戦争最後半、蒋介石の国民党下の重慶。半官半民の出版・印刷会社で校正係として働いている主人公・宣。並みの高等教育は受けたのだが、口数が少なく優柔不断で自分を主張できない性格のためにうだつがあがらない。父親が早く死に、しだいに不如意になる暮らし向きの中で、母親が子猫をなめるように育てた影響が大きい。
 宣には学生時代からつきあっていた美しく活発な内縁の妻・樹生がいる。地方銀行で下っ端として働いている。戦争もそれほどひどくはなかった時代、宣と樹生はやがては共同で私立中学校を設立し、新しい中国の発展に貢献する教育事業に乗り出すという野心も共有していた。しかしいまはそれどころではない。

 日本軍の侵略が中国全土でひどくなり、政界、経済界に何の手づるも持たない若者の人生計画などに一瞥をくれる人などいるはずもない。それどころか宣はいま、政府要人の序文が何十ページも続く誤字だらけの政策宣伝書や、党中央委員様の「名著」をはした金のような給料で校正することで、老いた母親と私立中学に通う出来のよくない息子を養わなければならない。その「名著」には、国民党が農民税制をどれほど改革し、人民生活の向上にどれほど資してきたか、ということが書いてある。もちろん(自分より多い)妻・樹生の給料がなくては、暮らしはまったく成り立たない。

  妻・樹生と姑である母親の女の憎み合いがなんともすごい。母親は当時としては教育を受けたほうなのだが、なんといっても纏足世代の中国女性である。樹生が内縁の妻であるとして、ちゃんと輿に載って嫁入りしてきた自分とは身分が違うというようなことを言う。いっぽう嫁・樹生は現代の教育を受け、一度は夫婦で教育事業に乗り出そうとした女性。おまけに美人で口が立ち、姑に対する敬語はきちんと使いながらも、夫と自分は同格であるということを隠そうともしない。

 物語の後半で、樹生が生活のために、彼女に気がある上司の世話で遠方に転勤することになる。姑は樹生が上司と関係するために息子を捨てたのだと勘ぐるが、そして夫もそれを疑うが、そんなことはない。しかし姑は樹生が任地の様子を知らせてきた文面をさっと見て、自分の思い込みは正しかったと誤読してしまう。彼女は「古い世代の中国女性」として、「腹を立ててはいたが、同時に、痛快に思い、得意にも思っていた。とっさには、これをいいニュースとさえ思った。自分の息子に同情してやらねばならないなど、思いつきもしない」ような女だった。

 

  物語全体のバックグラウンドにいる蒋介石は中華皇帝の名残りを十分にとどめている。その空気の中に育った世代と20世紀生まれの世代間の対立、中国独特の「家」の風習のなかで発酵しつくした嫁と姑の問題、息子によく伝わらない父の思い・・・、主人公・宣はこのあと結核を悪化させ、ひどい苦しみの中で死んでしまう。結核第四期から最期までのむごい苦しみ方が、ここまで書かなくても、と思われるほど詳細に文字にされているのはいささかつらい。

 作者・巴金は父まで3代にわたって県知事を務めた清朝末期の典型的な地主階級出身だという。自身の少年期に家は落ちぶれたらしい。若いときはバクーニンクロポトキンに憧れたアナーキストだったそうだ。