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ハナ・アーレント 「全体主義の起源」第三巻「全体主義」 3

 p189
 全体主義はあらゆる国で暴威を振るうが、その国が独裁者の本国である場合、事態は最悪である。このとき彼らは、自国民に対して極悪な外国人征服者のようにふるまう。全体主義独裁者が傀儡政府を好む理由もここにある。傀儡支配者は自国において最も血なまぐさい威力を発揮する。
 p190−2
 スターリンは、ロシアの最大の富はその地下資源や工業力にあるのではなく、ただひとえに、党幹部と広汎に分岐した秘密警察にあると、本気で思っていた。
 非全体主義世界の常識は歴史にしか学ぶところがない。全体主義支配の無構造性、物的利害の無視、合目的的な考慮や単純な権力欲に無頓着ということなどは、それまでの歴史になかった新しい権力原理であり、その行動予測は英仏の指導者にとって不可能だった。
 p202
 ファサードとしての国民社会主義「国家」はユダヤ人絶滅計画をいやいやながら法制化した。しかし国民社会主義「運動」のほうは早くも次の「敵」を捜しはじめ、身分票着用がすべてのポーランド人に適用された。呼吸器と心臓に疾患のあるものも、家族もろとも消し去られることになっていた。「運動」にとって「敵」の概念はその時々の事情で変えることができるから、「国家」イデオロギーに規定された敵への憎悪より長い生命を保つ。
 p216
 全体的支配の立場からすれば、人間が考える能力を持つという事実そのものが、どのような模範的行いをしても晴らすことのできない疑いを呼び起こす。なぜなら、考える能力は自分のこれまでの意見を変える能力と密接に結びついているからだ。そして知識層こそ、考える能力を最も持っている人間である。
 p227
 大衆という圧倒的後ろ盾があれば「すべてが可能である」という恐るべき発見は、われわれが理性と呼ぶものとはもはや全然関係のない、イデオロギーで固められた「科学」をも発見する。
 支配機構は非全体主義世界に対する陰謀をしばしば平然と言いふらすことができる。均整化した大衆はいつも「陰謀」プロパガンダに曝されているから、陰謀の概念にならされており、例えば在外同胞に、彼らが職業スパイであるかのように本国への報告を義務付けても、違和感を感じない。全体主義支配機構を寡占大企業、非全体主義を下請け企業群とすれば、勤労者大衆は既に十分均整化しているから、この図式はそのまま今日の状況に当てはまる。
 p231
 全体的支配の目標は、現実に存在しないもの、つまり「自己の種を維持する」ことだけが唯一の「自由」であるような人間を作り出すことである。精鋭組織のイデオロギー教育と、収容所におけるテロルによってこれを達成しようとする。
 収容所は単に殺戮と凌辱のためにあるのではなく、人間の行動方式としての自発性というものを除去し、人間を、パブロフの犬のように鈴がなったら餌を食うように仕込まれた、動物ですらないものに変える、恐るべき実験のためにもある。
 p232
 動物以下に落とされた、絶滅収容所の生き残りたちの報告は非常にたくさんあるが、その千変一律なことには驚かされる。内容が真実であるほど伝達力は弱く、状況が人間の理解力を超えていたことを淡々と物語るだけなのだ。 
 これらは読者に感動を与えない。読者が本当に身を入れて読んでも、語り手自身の「理解不能」だけが伝わり、昔から人々を正義のために立ち上がらせてきたあの昂揚した同情を全くかきたてない。
 p236
 それは、読者は、反射行動以外すべてのものが麻痺してしまうあの動物的な絶望的恐怖に捉われたことがないからである。絶滅収容所の生き残りは生者と死者を分つ深淵をあまりにも明確に知りすぎているので、記憶している一連の事件を述べる以上のことをしないのである。
 悲惨な従軍経験から不戦の試みのための政治的結論を出そうとしても、従軍経験そのものは陳腐なニヒリズムしか伝ええないことが判明している。
 現実性のない平和主義ではなく、そのもとではもはや人間が生きられないような状態を打ち破ること―戦争の必要性がもしあるとしたら、ここにしかない。
 p244
 最後の審判への信仰の喪失こそ、現代の大衆テーゼの根本である。最悪の人間はその恐怖を失い、最良の人間はその希望を失った。恐怖も希望もなしに生きることはまだ不可能だから、いたるところで熱望の楽園と恐怖の地獄を作り出す努力がなされている。
 p254
 ロシアでは(北朝鮮でも)収容所に入った人間の生死を追跡することはきわめて難しい。絶滅収容所では自殺することさえ許されていない。自殺すればお前の家族は全員殺害すると言われれば、彼は動物以下の虐待を受けても自殺できない。
 そして腕章や住民記録や所有物をすべて剥ぎ取られ、同朋をすべて殺害されて、彼が彼である証明を一切奪われて死んでゆく。自分の三人の子供のうち誰が殺されるかはお前が決めろと言われたら、その人の道徳的人格は崩壊する。
 収容所運営が囚人にゆだねられることによって、道徳的崩壊は完成に近づく。SSよりは囚人中の労働者監督が憎まれることになり、刑吏と犠牲者、有罪と無罪の区別は無になってしまった。
 p258
 道徳的人格とともに、拷問の脅威によってほとんどの個体性も破壊される。反応のみを唯々諾々と続けるパブロフの犬になってしまった人間は、暴動などを起こす気遣いはなかったし、解放の時点ですらSS虐殺が自然発生しなかった。人間の全体支配の勝利である。
 p262−5
 収容所のなかで人間を無用化しようとする全体支配の試みに精確に対応するのは、人口過密な世界のなか、この世界そのものの無意味性のなかで大衆が味わう自己の無用性である。収容所は(この世界そのものと似て)すべての人間的な感動が無意味である場所である。
 このように全体的支配は、われわれが通常その中で行動している意味連関を破壊する一方、「超意味」とでも言うべきものを作り上げる。社会の無意味性の上に君臨するのは、歴史の鍵を握りあらゆるなぞの解決を見つけたと称するイデオロギーの「超意味」なのだ。この「超意味」によって、彼らのすべての行動と制度がすっきりした形で「意味」を与えられる。
 p267
 すべては可能であるとする全体主義の信念は、貪欲や怨恨や権力欲や怯惰のようなものよりさらに悪い根源的な犯罪があるということを、それとは知らずに暴き出した。
 アウシュビッツやロシア強制収容所の危険は、われわれが功利主義的な考え方で世界を理解することをやめない限り、無数の人々が無用化されていくというところに存在し続ける。政治的・社会的・経済的事件はいたるところで、人間を無用化するために考案された全体主義の装置と密かに結託している。
 p273-4
 ナチが信じた人種法則の基礎には、人間を自然の進化の本来偶然的な帰結と見るダーウィンの人間観があった。
 ボルシェビキが信じた歴史法則の基底には、速度を増しながらその終点に向かって疾走し、結局この世界から自己の存在を抹消してしまうにいたるものとして人間社会を見るマルクスの観念がある。
 p275
 ダーウィン生物学の概念は、進化は循環的なものではなく、進歩の方向に直線的に向かっているということに帰するが、この理論は結局、近代の歴史概念は自然科学をも征服し圧倒したということにほかならない。
 他方、階級闘争というマルクス主義の歴史法則も、生産関係を発展させる労働力の発展は人間と自然との物質代謝として定義されている以上、究極的にはひとつの自然法則に依拠している。マルクスイデオロギーの中では、歴史と自然の対立があるのではなく、不可抗的な永久の運動過程が自然をも歴史をも捉えているのである。
 p278
 テロリズムの恐るべき諺 「鉋をかければ木屑が落ちる」
 p288
 マルクスによればあるイデーが労働者大衆の心を捉えた場合、そのイデーが当然持つべきであるとされる力は、まさに(「労働価値説」という)イデーから展開した強力な演繹論理の力であって、その自己根拠の完璧さの前に大衆は屈服するしかない。
 p291
 「おまえは確乎たる党員なのだから党がいつも正しいことは知っているだろう。おまえはわれわれがお前に着せている罪を実際に犯した。とすれば、おまえは歴史的発展の代行者である党の敵である。おまえがその罪を認めないとすれば、その拒否そのものによって、おまえはわれわれがお前に着せている党への反逆罪を犯すことになるのだ。」
 この理屈のかんどころは「お前は自分自身と矛盾してはならない」というところにある。無謬性というイデーから出発しさえすれば、そこからの強力な演繹論理の力にはなにものも抵抗できない。