吉本隆明は1924年、船大工の家に生まれた。庶民の子として、皇国主義教育に骨まで洗脳されながら育った。しかしその庶民の子は、世界がひっくりかえったときには二十歳になっていた。自然科学が好きな少年だったが、自分が受けてきた体制教育の意味を捉えられる思想家としての素質を持っていた。
いっぽう1914年生まれの丸山真男は、大新聞の政治記者を父に持ち、荒畑寒村など著名人の来客が絶えなかった家庭に育った。応召時は東大助教授だったから将校任官は難しいことではなかっが、一高在学時デモに参加して特高刑事に殴られた記憶は消えず、あえて一等兵のまま敗戦を広島で迎えた。その広島で上官たちに請われてポツダム宣言受諾の意味を講義したことが、丸山著作集の付録に載っている。
同じ戦後の「民主主義」を論じる思想家として、この二人ほど肌の合わない人はいないだろう。この『丸山真男論』は有名だが、丸山真男が吉本隆明を論じたものがあることは寡聞にして知らない。
吉本の言い分はこうだ。
p252‐3
丸山真男が一兵卒として体験した戦争は、一言でいえば知識人として「普遍的な」意味を持つ体験であった。才能ある丸山は、それを自覚的に、また思想的に体験した。敗戦前に彼がすでに戦後日本の「民主主義」を先取りしていたことは、彼の俊敏さとともに、それが「進歩的」知識人として「普遍的な」体験であったことを物語っている。実践される前に「先取り」されたがゆえに丸山の「民主主義」は、戦後大衆が奪取すべき民主主義とはかい離したものとなる徴候をはらんでいたともいえる。
・・・・・私(吉本)が丸山の敗戦までのイメージをよくつかめなかったのは、ほとんどその思想が大衆の生活思想に、ひと鍬も打ちいれる働きを持っていなかったことを意味している。
リベラルな日本知識人の多くはアタマのなかで考えあぐねていた。「敗戦で打ちのめされた日本の大衆は、支配層の敗残を目の当たりにし、食物も家もなくなった状態で、何をするだろうか?暴動によって支配層を打ちのめして、みずからの力で立つだろうか?あるいは徹底抗戦をゲリラ的に進めて、「終戦」をほんとうの「敗戦」に持っていくだろうか?」・・・・と。
しかし日本の大衆はなにもしなかった。大衆は天皇の「終戦」詔勅をうなだれて聞き、無抵抗に武装を解除して、荒れ果てた故郷に帰っていくだけであった。わたしたちはこのとき絶望的な大衆のイメージを見たのだが、丸山に言わせれば、「解放された御殿女中とはこういうものであった」。・・・・・残念なことに丸山真男の戦後の思想からは解放された御殿女中のその後を聞くことができない。
p259
大衆は「それ自体」として生きている。天皇制によってでもなく、もちろん理念によってでもなく、それ自体として生きている。そこから出発しない大衆のイメージは、すべて仮構のイメージとなる。だからほんとうは、大衆の日本的な存在様式の変遷として設定されなければならない問題を、支配ヒエラルヒーが天皇制からブルジョア民主主義に変わったから、この民主主義の確立こそ大衆的な課題である、といった誤ったイメージで捉えることになる。これは現在の丸山学派や類縁関係にある市民主義知識人の陥っている一般的な錯誤に通じている・・・・・・。
p263
・・・・・丸山の『超国家主義の論理と心理』の唯一の価値は、国家として抽出される幻想の共同性が、日本においてはつねに曖昧なる抽出としてしか行われない、という土着的な様式を指摘した点に帰することができる。しかし丸山はそれを土着的な様式と見ずに、近代国家形成の過程において起こった天皇制の問題としてみたのである。もちろん丸山の天皇制概念は、その土着的な根幹を、現在では消滅してしまった外皮から区別しなければ、本来的な思想的意味を持たない。
p300−1
・・・・・人間が社会的に存在するとき、人間は公的と私的に「同時に」「わかちがたく」存在している。人間の意識が社会的に存在するとき、それは情動的にも理性的にも、また生理的にも存在している。・・・・人間の意識の存在の仕方としていちばん肝心なことは、整序以前からの意識の総体が、「わかちがたく」存在しているということである。
・・・・・丸山真男にとっては、「わかちがたく」存在する「現実」はもっとも認めがたいものなのだ。わたしたちの思考が、抽象化と総合化に向かって運動を始める直前の対象があるがままに存在する瞬間こそ、丸山には耐えがたいことである。だからこそ、彼の方法には社会現象を生活史に不断に還元する過程が不足しているのだ。いうならば「現実」の空気が不足しているのである。