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TVから 「数の不思議」

 素数の出方に方程式はまだない。ある素数に続くようにすぐ次の素数が現れるかと思えば、次が現れるまでかなりの間隔があく場合もある。その出現間隔はまったく気まぐれに見える。この気まぐれは数が大きくなっても変わらない。
1,2,3,5,7,11,13,17,19,23,29,31,37,41,43,47,53,・・・,100001809,100001813, 100001821・・・
 先日のTVは、素数が出現する間隔の「気まぐれ度」は電子軌道の遷移距離の気まぐれ度と関係があると言っていた。数とは抽象概念、または「値」である。何かの実体を示すものではない。素数はもちろん数のなかの一部分である。この素数の配列と、素粒子の遷移距離という少なくとも実体性を想像できるもののあいだに強い関係があるとは、奇妙奇天烈としか言いようがない。
 詩人以外の言葉は、数式でしか表わせない事柄を伝えるには、まったく能力が足りない。例えば、単なる自然数の逆数の累乗を足すと、突然円周率パイが出てくる式がある。
n:自然数とすれば 1+1/4+1/9+1/16+1/25+1/36・・・+(1/nの二乗)=πの二乗/6 という有名なオイラーの式だ。
 言葉はこれを、“無限を介在させると有理数(分数)は無理数になる”と気味のわるいことを言う以上に、何ごとも伝えることができない。そもそも円周率の二乗を6で割った数というのは、どんな意味があるのだろう。凡俗はそのとき思わず古代人になって、曇った鏡に現れた謎の記号の神秘にたじろいでしまう。古代インドの物乞いが、釈迦のわからない言葉で天空の「慈悲」をさとされたようなものだ。
 謎はしかし、それを導き出した天才達の脳の中にも満ちている。アミノ酸の流れの澱みという高分子の「状態」でしかない「生命」が、ただの分数の和と円周率の二乗を6で割った数の関係を「考える」というのはどういうことなのか。細胞のアミノ酸構造の中から「観念」が生まれるとはどういうことなのか。
 細胞の中には刻々と入れ替わるアミノ酸などの有機高分子の流れが平衡状態を保っているだけである。ある形を持った固定的な『生命というモノ』が実体として存在するわけではない。有機高分子の流れをしかるべき順序に従って平衡させる仕組みはあるが、その仕組み自体も、細胞が組織に分化するときにスイッチが自動的に入ってできるものである。「仕組み作成の指令」がどこか賢いあたりから来るわけではない。
 組織分化のときに自動的にスイッチが入り、どこからも指示が来ないまま或る構造を持った器官が作られ、その中で有機高分子の流れが平衡し、天才においてはときどきその平衡が凡俗と違った状態に維持される。その果てに素数の出現間隔と電子軌道の遷移距離の気まぐれ度の類似が発見されたり、解けないリーマン予想で天才たちが次々に狂ったりする。・・・世界はそういうふうにできている、というのは何の答えでもない。