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山之内 靖 「マックス・ウェーバー入門」 2

[意図せざる結果という逆説]
 われわれに自分たちの決定的な限界を見せつけ、『鉄の檻』となって、逃れえない力を人間の上にふるうようになった『合理的生活態度』は、では一体なぜルターやカルビンのキリスト教的禁欲の精神から生まれたのだろうか。ルターやカルビンの教説のなかにすでに資本主義的合理性追求の芽があり、ニーチェの権力意志への指向がナチスに裏読みされたような事態が起きたのだろうか。
 じつは、そういうことでは、全くなかった。原理の発現→一般的現象への転写が起きたのではなかった。ルターでもカルビンでも、彼らの情熱は中世社会秩序の動揺の中で、いかにして魂を救済するかという一点に集中していたのであって、彼らの著作にそれ以外のものを読みとろうとする努力は空しい。
 たとえばカルビンは有名な「ウェストミンスター信仰告白」の中で、「神はその栄光をあらわさんとして、自らの決断によりある人びとを永遠の生命に予定し、他の人々を永遠の死滅に予定し給うた」と断言し、人間は神の意志を知るなどと不遜なことはなしえない、ただ、神の意志の道具である他はないとの立場をラディカルに押し進めた。
 それは快い人間的な慰めを一切はぎ取られた立場へ人々を追いつめる教説ではあっても、そこから人々を幸福な「進歩」に導く、あたかも有能な経営コンサルタントのような言葉がくみ取れるようなものではなかった。ウェーバーが言うように、「宗教から経済へという通路の中になんらかの因果的関係を探ろうという場合、宗教的教説に中に経済的行為に関する示唆を直接抽出しようなどということは、問題にもなりえない」稚拙な方法である。
 そうではなくてウェーバーはまず、神学上の革新的な解釈を下すカリスマ的なルターやカルビンが一方にいて、他方に、そうした新しい解釈を受けとめる信者大衆がいることに着目する。
 説教を聞き、あるいは、説教者たちが書いたパンフレットを読むというかたちで、テキストの内容を信者としての大衆が受けとめる。ルターやカルビンから直接に議論が引き出されるのではなく、説教者たちの「解釈」を大衆が聴衆や読者として、どのように受けとめたか、ウェーバーはそこに重要なカギを見つけるのである。
 牧師はルターやカルビンの説を自分なりに消化した上で大衆に臨み、神の教えのどのようなものが日々の生活の実践にとって大切かということを、やさしい言葉で語りかける。こうした通俗性をもった説教こそが、また、その説教に対する信者の反応こそが、後に決定的な意味を持つようになるのだ。
 数世紀を経て「プロテスタンティズムの倫理」はどのように受け継がれていったのか。ウェーバーは百ドル紙幣の顔にもなっている億万長者ベンジャミン・フランクリンをとりあげ、彼の「若い商人へのアドバイス」というパンフレットの中にまぎれもなく「プロテスタンティズムの倫理」の系譜をひく「資本主義精神」が現れていることを例証する。
 このパンフレットは、ところで、それ自体としてはなんら宗教的なトーンをもっていない。事業で成功するための心得書といった内容がすべてであり、明らかに功利主義的な色彩を濃厚にもった、現在のアメリカ企業人にも十分通用する世俗的・通俗的な小冊子に過ぎない。しかしウェーバーはその中にある強い倫理的指向と、一種の非合理的なものへの執着に注目する。
 非合理的なものへの執着とはなにか。常識的な人間的幸福を考えるなら、働いて富を得る目的は、生活を豊かにすること以外にない。家族と旅行をし、芝居を見、ごちそうを食べ、ともかく楽しい生活をめざそうとする。これこそ、今日的な常識からするところの合理性にほかならない。
 ところがフランクリンの助言を読んでいくと、一切の幸福主義や快楽主義には目もくれずに生涯を職業的な労働に捧げるのだ、という観点が終始一貫、あたかもそれが自己目的であるかのように貫かれている。これは日常的・合理的な意味での「助言」からかけ離れており、幸福や快楽が一般的な人生の目的だとすれば、フランクリンのパンフレットは著しく非合理的な性格を帯びているといわざるをえない。ウェーバーが「自然な感情を転倒させた、およそ無意味な」と言った、厳格で禁欲的なピューリタニズムの倫理規範がフランクリンの精神風土になっているのである。
 幸福や快楽には目もくれずに、生涯を職業的な労働に捧げるというフランクリンのエートスは、したがって、「人間は神の意志を知るなどと不遜なことはなしえない、ただ、神の意志の道具である他はない」とのカルビンの立場とそう遠いものではない。功利主義者にして億万長者であったベンジャミン・フランクリンは、怒る神の代弁者であった清貧なカルビンの忠実なる弟子だったのだ。
 ウェーバーによれば、人類史のいたるところで、こうした問題が繰り返し現れてくる。先行する者が、主観的に魂の救済を求めて宗教的な救済へと向かっていく情熱が、「意図せざる」形で客観的に、社会的・経済的・政治的な秩序の形成に「向かってしまう」。そのズレこそが、人類のあらゆる歴史過程において抜き差しならぬ意味を持つ。
 ここは主観的価値意識を徹底的に排除するウェーバーの歴史哲学の核心部分である。価値意識を取り払えば、本源的に避けることのできない不確実性が見えてくることこそ確実である。