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山之内 靖 「マックス・ウェーバー入門」 1

[いわゆる『欧州中心主義』]
 丸山真男は、基本的にお人好しな思考法が日本の歴史意識の古層にあると言う。「制度」あるいは法体系を、「どこかよその誰かが」「秋に稲穂が実るようにいつのまにか」作ってくれた便利なものとする思考法である。それは、絶対者と一対一で相対するプロテスタンティズムの職業倫理意識が生んだヨーロッパ由来の思考法とは地球半周分の開きがある。「神を豊かにするためには我々が豊かにならねばならず、そのためには毎日の仕事に責任あるプロ意識を貫徹させねばならない。」
 もちろん後者はマックス・ウェーバーの主著のひとつ「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のメインテーマだが、この精神風土の比較には私たちが陥りやすい価値意識が混入している。
 「ヨーロッパの神の観念からは、ふだんの生活を際限なく合理化することによって世界を統御しようとする、勤労への絶対的な使命感、その結果としての進歩を信じて疑わない態度が生まれた。儒教社会に典型的な現世への順応とは対照的に、プロテスタンティズムにおいては現世の合理的改造への使命感が人々の間に打ち立てられたわけで、世界の中で唯一、西欧文化だけが普遍的意義を持った発展方向にある」として、あちらが“進んだ”文化であり、我々はセカンドパーティであるとする通説的解釈である。 
 この解釈はしかし、ウェーバー研究者たちが勝手に作り上げたものではない。ウェーバーの「宗教社会学論集」の「序言」は次のように始められている。「どのような諸事情の連鎖が存在したために、ほかならぬ西洋においてのみ、普遍的な意義と妥当性をもつような発展傾向をとる文化的諸現象が姿を現したのか。」
 普遍的な意義と妥当性をもつ文化現象として、まず科学がとりあげられる。インド、中国、メソポタミア、エジプトでもすぐれた自然観察はあったが、数学的に基礎づけされた天文学、合理的証明をともなう幾何学ギリシアで初めて成立した。所与の現世の改造に直接つながる、実験という近代自然科学にとって不可欠の手続きは、ルネッサンス時代のヨーロッパになってはじめて組織化された。
 続いて国家論や芸術の領域に話を進め、音楽における合理的な和声法、絵画における遠近法の事例をあげたあと、議会と議会に対して責任を負う行政府を柱とする民主主義についても「西洋でだけ生まれた」と述べている。
 民主主義にヨーロッパ文化の普遍性が認められるとすれば、経済の領域に発生した資本主義についても事情は変らない。資本主義についてウェーバーは「近代西洋において我々を支配している最も運命的な力」と語っている。資本主義が何から始まったかについては異論が多いが、資本主義の「論理」がヨーロッパだけで発展しことは疑いがないだろう。
 こう読んでくると、非西洋世界出身の研究者、あるいは非西洋世界を対象とする研究者が、ウェーバーの論旨がヨーロッパ近代に現れた合理化を賛美する欧州中心主義によって支配されている、としてもあながち無理はない。たしかにウェーバーは、例えばいま我々のまわりでますます害毒化しつつある官僚制についても、近代ヨーロッパの叙述に大半を費やしている。「官僚制なるものはきわめて古くから見られるものである。しかし、我々の全存在が、専門的訓練を受けた官僚組織の枠組みの中にからめとられ、法律家的な訓練をへた国家官僚が社会生活のもっとも重要な機能を担っているという様相は、近代西洋以外に、いかなる国、いかなる時代にも見られなかった。」
 事実としては、宋・明時代の中国の科挙制度による官僚機構は現在の官僚制度よりも官僚的だったし、資本主義の運命的な力は近代西洋だけを支配したものでもない。世界の現代音楽から見れば当時の和声法がすべてではあるまいし、遠近法によらない美しい絵画は当時もいまもたくさんある。ドイツ人ウェーバーは確かにその意味で古典的な欧州中心主義である。当たり前の話である。
 しかしウェーバーほど、社会科学が「価値」を見出すことに疑念をもった学者はいなかった。社会生活一般の価値がどのように存在できるかを彼ほど厳密に考えた学者もいなかった。彼は時代の制約上、ヨーロッパの知識人が得られる限りの資料に基づいて論理を誠実に展開しただけであり、プロパガンダほど彼から遠いものはない。マルクスより五十年後の時代を生きた彼は、マルクスの表と裏を見極めることができ、より醒めていた。彼の論文から狭量な「価値」意識を引き出すことは妥当ではない。そこに「合理主義賛美」を読み取ることには、逆に、読み取る人の価値意識が現れる。
 ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の末尾において、暗く救いのないペシミズムを書きつづるとき、わたしたちはこの暗さの大部分もヨーロッパ由来なのだと思い知るだけである。

 「近代文化の本質的構成要素というべき『職業観念』のうえに立脚する『合理的生活態度』はキリスト教的禁欲の精神から生まれでた。この禁欲的職業観念は、いまでは機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済組織の、あの強力な秩序界(コスモス)を作り上げるのに力を貸すことになった。そして、この秩序界(コスモス)は現在圧倒的な力をもって、その機構の中に入り込んでくる一切のひとびとの生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石燃料の最後の一片が燃え尽きるまで決定し続けるだろう。近代文化の合理性は、いまでは『鉄の檻』となって、逃れえない力を人間の上にふるうようになってしまった。」