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養老孟司 「脳のシワ」 

 p180-2 
 聴覚系の脳はしばしば論理的である。視覚系の脳はその逆である。論理とは耳のものなのだ。目は「パッと見てとる」もので、目に理屈はじつはない。理屈はじゅんじゅんに説くもので、それは耳が得意なのである。論理は言葉によって尽くされるしかなく、その言葉は耳から一音ずつ時間を逐ってしか入って来ないからである。DVDで時間をとめても静止画像は見えるが、口をあけた俳優の台詞は聞こえない。
 日本語では、世界中の言語の中で文字の重要性が例外的に高い。日本では古来の初等教育からして「読み書き」つまり目で学ぶ言葉を教えたが、古代ギリシャでは、ソフィストは授業料を取って耳で学ぶ言葉・弁論術を教えた。日本人がエルとアールの発音の区別ができないのは、いまや世界的に有名だが、これは子供が言葉を覚えるときの“周囲の人が言うことがなんとなく耳から入ってきて、そのうちに自分もモゴモゴ言い出す”過程を教育に取り入れなかったからである。
 論理学や法学の「体系」が日本に生まれなかった基本的な理由がここにある。あらゆる現象の瞬間的側面を視覚的に「パッと見てとる」ことで世界を把握してきた日本人は、ゆっくり時間をかけてそれらの裏にある体系的つながりを考えることが苦手だった。芸術の面でも、世界の「瞬間」を表象する絵画はよく発達したが、音楽―音符の時間をかけた運動―で「世界」を抽象することは不向きだった。宗教はこの特徴を最もよく表わす。「一見してわかる」空(そら)だけがあって、「一見ではわからない」法則の支配する「天」の理屈を、じゅんじゅんに説くものとして抽象できなかった人々は、全盲塙保己一の言うように「さてさて不自由な目明き」なのだった。