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村上春樹 「1Q84」 2

 推理小説として読めば、若いころ株式運用に天才を見せる一方で、男遍歴を重ねた柳屋敷の老婦人が物語全体の黒幕だ。教団「さきがけ」を主宰する深田(彼はオウムの林泰男を想わせる)は老婦人の「長い間うまくいっていない」長男だろうし、深田は母親の若いころのスキャンダルをネタに、その莫大な遺産を生前から恐喝的に掠め取って教団の資金源としているのだろう。母親の性的遍歴は長男の少女虐待に形を変え、彼は実子ふかえり(老婦人の孫)をも犯したに違いない。彼女の昔の享楽は結婚した長女に対する婿の虐待→長女の自殺という凄惨な因果の形となっても、老境を苦しめる。
 自分の過去を犯罪的に映し出す息子を許せない老婦人は、青豆に息子殺しを依頼する。その一方で、息子の宗教指導者としてのカリスマ性を信じている彼女は、青豆の息子への殺意が既に察知され、青豆が近づいたとき強くマインドコントロールされることを予知している。
 その通りに、青豆は殺人成就後は「さきがけ」に徹底的に追い詰められ拷問されて殺されることを信じ込み、首都高速の上でピストル自殺しようとするするが、ピストルは老婦人の絶対的用心棒タマルが与えたものだった。依頼殺人のあと老婦人とタマルは青豆をセーフハウスにかくまうが、目論見は彼女を一週間ほどもそこに閉じ込め、拷問死の凶兆に怯えさせることだった。青豆にはつかまる前に自殺してもらわなければならなかった。殺人依頼が社会に露呈することを万が一にも防ぐために。
 天吾を調べ上げる「新日本学術振興財団」などもすべてスポンサーは老婦人であり、三百万円を無理やり提供しようとすることなどは、天吾と青豆が出会ったときに備える老婦人のクライシスマネジメントの一環である。「財団」の牛河は、作品の中では気味悪い道化芝居で読者を適度に混乱させてくれる重要な配役だ。
 深田の先輩教授である文化人類学者戎野も何を考えているか分からない株屋であり、老婦人とは投資業界の地下水脈で通じ合っているにちがいない。老婦人と深田の両手(そして戎野の片手)がつながれば「さきがけ」の「とても長く力強い腕」はあらゆる関係者を引力圏にとらえてしまう。
 第二巻の最後で教団は天吾の父が入院する「良心的な」病院となって姿を現し、臨終間近い父を連れ去り、かわりに十歳の青豆を空気繭にいれて天吾に1Q84年の世界を指し示す・・・・・。作者の「信じれば本物になる、何から何まで作り物の世界」は美しく完結する。
 第三巻には当然ながらファンタジーとしての「あるべき」エピローグがもたらされる。第三巻は蛇足と言う人がいるかもしれない。邪悪な世界を開こうとする暗緑色のもう一つの月は隠され、天呉と青豆の子供は幻の月ドウタではなく、見慣れた黄色い月の下で成長していくだろう。しかし殺された醜い男・牛河の魂はすでに空気さなぎに変わろうとしており、その口からはリトルピープルが六人も飛び出している。不条理や悪が尽きることはない。

 この作り物の世界には、わたしたちのありようを全く変えてしまったコンピュータとインターネットが一切登場しない。インターネットのある世界では教団「さきがけ」の社会からの隠れかた、暴力性の顕示のしかたなどが全く変わらなくてはならない。一九八四年の設定だからこれでいいのだが、村上はなぜ二十五年も前のクラシックな暴力の時代を、当時はなかった言葉を使うという奇妙なことをしてまで描いたのだろう。オーウェル1984年」が下に敷かれているが、青豆の犯行成就後、顔を整形して教団の追跡を逃れようと計画する挿話と、第三巻での牛河の残忍な殺され方を除いて、「1984年」の身が凍るような恐怖は前面に出てこない。
 現在の悪の源流は、たとえばハナ・アーレントがともかくは分析できた欧州数百年の歴史的必然としての全体主義のような、特定のイデオロギーにあるのではない。この世紀では、技術革新という、我々が「目指さざるを得ないこと」自体が悪である可能性が強くなった。それにもかかわらず作者が、悪はより酷薄なものとなり、コミュニケーションの連関のありかたもより多義的になってしまったいまの世紀に、場を設定しなかったのなぜか。悪を、特定の偏執的個人やイデオロギーのせいにしても容認される、「わかりやすい時代」を選んだのはなぜなのか。村上は、世界を読者と共有できる閉じた物語として完結的に書ける時代は、十年ほど前に過ぎ去っていることを改めて追認したのだろうか。いまの世紀をかけば話が難しくなるという読者理解への過剰な配慮は、一応措くとしても。
 六十二歳の彼には、資本主義が脱イデオロギー化された分だけ「みんなの悪」になったネットの攻撃に直接さらされる、そんな弛みのない実感を持つことができないのかもしれない。学生時代にネットが始まった平野啓一郎村上春樹はちょうど一世代違うのだ。