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村上春樹 『1Q84』 (新潮社)

 12年ぶりの再読。前回読んだときはプルースト失われた時を求めて 』をまだ読んでいなかった。だから以下のようなことは言えなかった。それは、『1Q84』は村上春樹ならではの、とても分かりやすい、端正な文体で書いた『失われた時を求めて』ではないかということだ。

 プルーストのそれは、「あとがき」で翻訳者の吉川教授が書いているように、「私の過去の人生を素材にして、時間の埒外に存在する真に充実した人間を、写実主義 の手法をとらず、夢の効用を援用しながらシュールレアリスティックに描き出す」というものだった。そして「私」はこれを書くことこそ「私」の天職であることを発見したといまさらのように言う。つまり老いた「私」が書こうとしているのは、プルーストというたぐいまれなシュールレアリスト小説家の存在根拠を示そうとする小説なのであり、小説の中で小説が循環する超小説だといえる。

 これに対して『1Q84』では最後の場面で、主人公は難敵からの攻撃を逃れ、月が二つある超現実の世界から、月は一つという私たち全員が見慣れた通常の世界に戻ってくる。

 「私たちは1984年の世界に戻ってきたのだ」青豆は自分にそう言い聞かせる。「もうあの1Q84年の世界ではない。もとあった1984年の世界なのだ。でも本当にそうなのだろうか。それほど簡単に世界は元に復元するものだろうか。ひょっとしてこの自分が立っている東京首都高速の路肩の世界は、さらにもう一つの違う場所なのではあるまいか。私たちは月が二つあった世界から、もう一つさらに異なった、第三の世界に移動しただけではないのか。」

 あるいはそうかもしれない、と青豆は思う。しかしそれでも、一つだけ確信を持って言えることがある。なんといっても私は20年思い続けてきた天吾くんの手を握りしめている。私たちは月が二つあり、論理が力を持たない危険な場所に足を踏み入れ、厳しい試練をくぐり抜けて互いを見つけ出し、そこを抜けだしたのだ。たどり着いたところが旧来の世界であれ、さらなる新しい世界であれ、何を怯えることがあるだろう。新しい試練がそこにあるのなら、もう一度乗り越えればいい。それだけのことだ。少なくとも絶対に私たちはもう孤独ではない。

 第三巻の途中で、タフなボディーガードのタマルが、アパートにしばらく隠れ住む青豆に対し、時間つぶしに読んでみろと、村上とは全く違う文体で世界のありようを描いた『失われた時を求めて 』を渡すところがある。これは『1Q84』の、言葉遣いは平明だが、なんとも不思議なストーリー展開に右往左往する読者への、村上春樹のサービスメッセージなのかもしれない。