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TVから 「動物ピープルの怨念」

 七年前の福知山線脱線事故の(将来予想される危険を回避する設備の導入を怠ったという)責任を問われ、過去三代のJR社長が起訴された。検察が二度不起訴にしたのを検察審査会がひっくり返したもの。被害者感情という「人民の怨念」が三人を裁く。煙草を吸いすぎて肺がんになったり、ハンバーガーを食べすぎてブタのようになった人間が、「将来予想される危険を強く警告しなかった」と言って巨額の賠償を請求したアメリカのバカな裁判に似ていないか。
 「ATS整備の注意義務を怠った」ことは「安全確保の最高責任者である社長はそうするべきであった」と言えばいいのだから、今回の検察(地裁指定の弁護士)の論告は簡単である。立証は、本来の検察が二度不起訴にしたのだから、きわめて困難だろうが。非合理的な「怨念」をどう斟酌するかという判事の世界観がすべてである。判事が人民にすり寄れば、カフカ「審判」のような裁判になる。「審理はどこから来るとも知らず彼らの視野のうちに現れ、どこに行くのか分からぬままに進んでゆく・・・。」
 公判の進み方に注意を払おう。証拠がどこから来て誰がどのように証言してゆくのか、泣き落としの茶番と強弁はいつ見られるのか、メディアがそれをどのようにトレースしてゆくのか、注意して見守ろう。
 今年、怨みと報復に基づく法制度の崩壊が、三つ進行した。福知山線脱線事故と、姫路の花火大会歩道橋崩落事故と重大刑事事件の時効廃止。時効廃止は法律改正以前の事件にも適用するのだから明らかに過去遡及である。何よりも「平等」を希求する動物ピープルの怨みが法の大原則さえあっさり覆してしまった。
 四つ目もある。代理ミュンヒハウゼン症候群で三人の子供に水を注射し一人を死なせた母親の裁判員裁判で懲役九年の判決を出した件。医師の百十五ページにわたる精神鑑定書が「難しすぎる」との判断で証拠採用されず、三ページのレジュメに圧縮されて、それをもとに九日間の「長い」評定が裁判員のあいだで行われたという。
 精神鑑定書が「難しすぎる」というのは、裁判員には読解の能力がないことを認めたようなものである。しかし中身を理解できないゆえに証拠として採用すべきでないというのは、奇妙な論理である。事件の因果を理解できない人間が、憎しみや同情の感情で重大な判決を下していいとするからだ。
 術語を正確に使った百十五ページを素人向けに三ページに書き直すことはできない。三ページはあくまでパンフレットであり、精神病の複雑さを説明しきれない。「分からないが憎い」から、その感情のままに判決を下すのを人民裁判という。あるのはもっともらしくみえる怨念であって「法」ではない。
 自分たちが理解できないことを理由に証拠としないとは、相対性理論が読めないからアインシュタインのE=MCCという方程式は疑わしいというようなものである。「子殺し」人間を“許せない”とする大衆感情が法理論より優先するなら、旧ソビエト時代の隣人の密告によるシベリア流刑や、紅衛兵による知識人圧殺はすべて正当化される。
 五つ目もある。こんにゃくゼリーと幼児・老人の喉つめ窒息死について、十二月二十二日内閣府副大臣が「直径一センチ以下が望ましい、この指導に従わないメーカーは、刑事訴追はしないが名前を公表する」と喋っていた。商品の大きさに国が干渉するのは前代未聞である。小さく切って与える育児常識を放棄した女は訴訟を起こし、一審で負けても内閣府副大臣発言に元気を得て控訴したくらいだから、選挙の時は頼もしい存在だ。哀れなゼリー会社などは「有権者大衆」の生贄の羊くらいに思われているのだろう。育児常識放棄女と同じ社会で暮らすのはつらいことだが、副大臣のような男の政府をいただくのも不幸である。思えば、「ユダヤ人を密告しないドイツ人は半ユダヤ人として、選別リストの上位に載せる」としたナチの人民政策も、あくまで「全ドイツの安寧と福祉」のためだった。
 昔から、正月にモチで窒息する子供や老人はいっぱいいた。数を調べてみると、厚生労働省発行の「厚生の指標」では、餅による死者数は毎年約200件だそうだ。葬儀社のHPにあった数字らしいので、全くのデタラメではあるまい。対してこんにゃくゼリーの事故は延べ数十人に過ぎない。伊勢の「赤福」はコンニャクゼリーとほぼ同じ、ちょうど子供の喉をつめる大きさである。コンニャクゼリーを直径一センチ以下にせよと言うなら、赤福も直径一センチ以下にせねばなるまい。大きなアメは発売禁止、肉はミンチしか売ってはならないとしなければなるまい。
 例によってメディアは、動物ピープルを恐れて、沈黙するばかりである。育児常識放棄女は調子に乗るばかりである。