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橋本治 「巡礼」

 橋本は小説家として三流である。三流にしてはよく売れている。急なストーリー展開をしなければならないときは作者がしゃしゃり出る。地の文で「時代は深刻さを捨てる方向に向っていた」というようなことを書くという、あまりといえばあまりのやり方で。「深刻さを捨てる時代」の精神の傾きを登場人物に語らせるのが小説の作法というものではないのか。
 常套句が頻繁に出るし、シンタックスが何度か狂う。全体としては田舎の土塊やささくれた荒縄のにおいがする文体なのだが、時々妙なカタカナ語をまじえる。九七ページの「自分の性欲の存在を肯定されたつもりで納得し・・・それまでくぐもりをかけていたものが、打って変わってシャープになった」など。橋本治は悲惨な人を好んで取り上げるタイプなのだろうが、大昔のプロレタリア作家がそうであったように美しさへの配慮を持ち合わせない。三流らしく、新聞の社会面のような、ナタで小魚を裂いたような文章で話を綴ることに意味があると考えているようだ。数十年前の社会部記者が独房の囚人を「悪びれる風もなく毎日の食事をペロリと平らげる」と書いたように。
 毎日新聞の書評欄で複数の人が今年の収穫にあげてはいなかったか。まあ一昨年の高野陽太郎氏のこともあったけれど。ページがまだ二割ほど残っているが、ゴミ屋敷の住人は悲劇でも何でもなかったのではないか。ものを片付けられず、計画だてて前へも進めない家に育ち、子供には小児癌で死なれ、嫁には姑との争いで家を出られたあと、昼に弟の嫁に抱きつくような人間である。
 二人暮らしの母に死なれた後、彼はゴミをためるようになり、世界から見捨てられていると感じ、少しずつ言葉も失っていくが、そんなことは取り立てて言うことではない。自身のそれまでに何十回とあったはずの展開(evolute)の機会に、彼は弟のように進化(evolute)していかなかった、腐るしかないゴミのような人間だったということである。