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ウィリアム・ジェイムズ 「プラグマティズム」 2

 p59
 もし神学上の諸観念が、ある人の人生にとって価値のあることが事実ならば、その観念はその限りにおいて善であることを、プラグマティズムは認める。なぜならその観念がどれだけ真であるかということは、その人にとって重要な、他の真理との関係に依存しているからであり、この場合はその個人の中で、神学上の諸観念と他の経験的観念の関係が良好だからである。
 p65
 先験合理論は論理と天空に執着する。経験論は外的な感覚に執着する。しかしプラグマティズムは実際的な効果を持っているものならなんでも、論理にも感覚にも、卑近な個人的な神秘経験まで考慮しようとする。プラグマティズムは私的な事実の穢れのまっただなかにさえ、――もしそこが神を見出せそうな場所なら――そこに住みたまう神を捉えようとする。
 ジェームズは「プラグマティズムも、プラグマティズムならではの神を捉えようとする」と言うが、たとえば「神 = ブラフマン自身の限定的現われである限りにおいてのある種の実在性」といったカテゴリーを彼はどう扱うのだろう。
 ここで言っているのは<井筒俊彦:われわれの側で、表層意識が深層意識に転換し、さまざまな存在的「現われ」が払拭され尽くせば、当然、一切の事物の幻影のような姿は消えて、絶対無分節の実在者そのものが了了と現われてくる。深層意識の立場からすれば、全ての事物は実在性を欠く虚妄のまぼろしにすぎないけれど、それらがすべてブラフマンの「名と形」的な歪であり、ブラフマン自身の限定的現われである限りにおいて、一切の経験的事物にはある種の実在性が認められなければならない(『意識と本質』)>といったカテゴリーである。 これは、「カトリック聖餐式でパンがキリストの体そのものとされ、われわれ(の卑近な生活)がいまや神性の実体そのものによって養われる」といった、ジェームズが侮蔑の眼差しを向ける「スコラ哲学中唯一のプラグマティックな実体概念」とはまったく異なる実在性のカテゴリーである。
 
 p60
 われわれは神から出てきた結果を信頼できると確信してよいし、責任の苦悩を払い落として精神の休暇を取る権利が与えられていると考えてよい。これが(実際的であるかどうかを第一義とする)プラグマティズムが考える神の現金価値である。
 「神の現金価値」とはニーチェすら思いついた言葉だろうか。饒舌のフィリップ・マーロウ探偵が口にしそうではないか。しかしそもそもブラフマンは「神の現金価値」を言い出すプラグマティストの小集合を含んだ大集合ではないのか。
 p70
 「物質は色、形、硬さなどの感覚として知られる。これらの感覚こそ物質という名辞の現金価値なのである。物質は、存在するなら、われわれはその感覚を得るし、存在しない場合はそれを欠く。これらの感覚が物質の唯一の意味なのである。」(バークリー)
 十八世紀のアイルランド人哲学者であるバークリーは、スコラ哲学の実体概念を嘲弄するためにこのことを言ったのだが、当然ながら時代の制約として素粒子物理学の知識を欠いている。素粒子は色や形を持たないし、波動としても同時に、同じ場に存在しうる。物質は感覚で捉えることができないのが、逆に基本の形式なのだ。
 p72
 「魂」も経験の世界に引きずりおろされ、諸観念相互の特殊な結合というふうに「小銭」に替えられる。
 p73
 「唯物論者にかかると天才の最高の作品さえが彼の生理学的諸条件から解明される。この問題はしばしば論じられるものであるが・・・」としながらジェームズは深追いしない。美的な好き嫌いの争いであるとしながら、好き嫌いとはどういう生理学的現象なのかを詳しく見ようとしない。
 「生理学的諸条件」の解明は百数十年後のいまになってもほとんどまったく進まない。あるいはクオリアの解明は原理的に不可能ではないかと思われ始めている。「解明」とは何なのかとさえ問われている。「その人なるもの」の「現金価値」はいくつかの「小銭」に両替できるとした国の子孫が、国のあり方の現金価値を疑い始めている。