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デイビッド・ブルックス 「人生の科学」(早川書房)

 変なタイトルの本だ。朝日新聞の書評を読んで、「無意識」があなたの一生を決める、とあってなにげなく注文の電話をしたのだろうが、届いた表紙を見てみると気恥ずかしくなったのを覚えている。この年で「人生の科学」でもあるまいと思って、一年以上も本棚の隅のところに放って置いた。
 このあたりの読者心理については、訳者はさすがに敏いものである。 「ニューヨークタイムズの名コラムニストであるデイビッド・ブルックスが書いたこの本の内容は、「人と人のつながりについて」 である。こう書くとなにやら説教臭い本のように思う人もいるかもしれない。・・・・・・・だがそうではない。人間という動物がいかに感情に左右されるか、他人との関係性がいかに個人の人生を決定付けるか、それを科学的な調査、実験の結果に基づいて教えてくれる本なのだ」 と、あとがきで説明している。
 六○○ページ近い大著である。しかし全部読む必要はまったくない。わたし自身、最初の一○○ページほど読んで飽きてしまった。あとは後半部の章のタイトルだけを読めば、何が書かれているかは正確に予測できる。
 エピローグのタイトルは「人生の意味」。アメリカという国のことを少しでも知っている人は、中身を読まなくてもタイトルだけで、何が書いてあるかが分かる。
 誰か口達者な人が言っていたことだが、自分の説を他人にじっくり聞かせようとするときは、その相手に 「この人はどこに話を運ぼうとしているのだろう?」 と、いつも緊張させておかなくてはならない。 その相手に「分かりました!」と言わせてはならない。「分かりました!」と言われることは「分かったから、もういいです!」と同じことである。
 アメリカ人の書いた本には、このあたりが行き届かないものが多い。相手が「もうわかりましたよ!!」と言っているのに、盛り上がらないエディ・マーフィみたいに、オチのばれた饒舌が止まらない。
 著者が言いたいことはほとんど「はじめに」に総括されてしまっている。要約する。

 p11−6
 これまで、無意識は不当に低い地位に置かれてきた。人類の歴史の中で、多くの人が知っているのは、あくまで「意識の歴史」である。意識だけが自らの歴史を文章に残すことができたからだ。内側の無意識の世界で何が起きていたのか、それをまったく知らないまま、意識は自らを主役であると信じて疑わなかった。実際にはまったくそうではなかったのに、あらゆることは意識の力で制御できるはずだと。・・・・・・自らが理解できることだけを重視し、それ以外は無視する、それが意識の世界観だった。
 近年、分子生物学や遺伝学、神経科学認知心理学などいくつもの分野で新しい発見が続き、「意識」や「心」というものに対する認識が大きく変ってきた。その中でも重要な認識は、私たちが日々、意識的に考えていることは、私たちの「人となり」にはあまり関係がないということである。意識の下で知覚されている情報こそが「人となり」を決める上で大事だということだ。バージニア大学の研究室には、人間の脳は同時に一○○○万個もの情報を使えるという脳科学者もいるほどで、彼によれば私たちが意識できるのは、どれほど多く見積もっても、そのうち四○個ほどに過ぎない。
 見方を変えれば、意識は、意識下の知覚情報の大兵力を率いる大将のようなもの、と言うこともできる。大将は全体の戦況を少し離れたところから眺め、判断を下して指揮しているだけということである。これに対して意識下の知覚情報は、言ってみればGPSのようなものである。知覚情報GPSは私たちを支配してしまうわけではないが、大将である「意識」はGPS情報を頼りにして「成功」への進路を決めるのだ。
 第一章「意思決定」にはもっと端的な、みもふたもないことが述べられている。 
 p39−47
 「意識下のGPSは経済的成功だけに関係しているのではない。日々、ふつうに暮らしているだけでも、脳には聴覚・視覚・嗅覚・触覚などの情報が絶えず膨大に流れ込んでくる。そのままでは、ただの混乱状態である。意識下のGPSは、絶えず膨大に流れ込んでくるデータと記憶に蓄えられた過去のデータを、いつも比較している。過去のデータと比較することで、物事がいまのまま進んだ場合に好ましい結果が得られるか、それとも悪い結果になるかを判断しつつ、同時遂行的に大将である「意識」にもその判断を送っているのである。・・・・・・・・・・。
 「たとえば、人は交際相手を選ぶ場合、やさしい態度や言葉といった意識にのぼる事柄だけで選ぶわけではない。もっと現実的な計算も働く。ベテランの株式トレーダーのように、だ。無意識のうちにではあるが、相手の価値が今後、上がるのか下がるのかを予測して行動を決めるのである。本能的に、投資に対してもっともリターンが大きくなる道を探るのである。
 「・・・・・・男性は何か欠点があっても、仮に身長が少し低いとしても、収入が多ければ身長の高い男性よりも女性の人気を勝ち得ることができる。インターネットのいわゆる出会い系サイトで集められたデータがある。それによれば、身長が一六八センチの男性でも、もし年収が一七万五○○○ドル多ければ一八二センチの男性と互角になれることが分かっている。黒人男性が白人女性と付き合いたいときには、だいたい年収が一五万四○○○ドル多ければ希望がかなえられることも分かっている。・・・・・・」
 この本は、学術論文ではない。「ハロルドとエリカという夫婦の物語をつうじて他人と切り離しては存在し得ない人間の真の姿」を描いたものだ。ハロルドとエリカは、彼らの表層意識を支える無意識の価値観がシンクロする人間を互いに選び合ったことで、最後には「とても幸福だった」といえる一生を送ることができた。
 アメリカの中流以上(と自分たちは思っている)読者には喜ばれた本だろう。アメリカが好きなタイプの日本人にも同様だろう。WASPらしさを余すところなく「哲学」したウィリアム・ジェイムズは『プラグマティズム』の中でこう書いた。 「われわれアメリカ人は神から出てきた結果を信頼できると確信してよいし、責任の苦悩を払い落として精神の休暇を取る権利が与えられていると考えてよい。このことこそが(実際的であるかどうかを第一義とする)プラグマティズムが考える神の現金価値である。」 
 私の読書体験の中で 「神の現金価値」 以上に刺激的だった言葉はなかった。(本ブログ 2011年11月10日)