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夏目漱石 「文学評論」(岩波文庫)上巻 2

 p191
 レスリー・スチーブン「十八世紀における英国文学および社会」
 十八世紀初頭スウィフト、ポープ、アジソン、スチール等、文学機関を組織したものは(自分たち富裕国民が主人であるという、歴史上初めて登場した)国家を未曾有の重要な地位に据えた。そのうえで、全世界に向かって秩序ある自由の模範を示した。清教徒革命と名誉革命という二度のイギリス革命で)専制君主と戦って勝利した議会は、宮廷の鼻息をうかがう必要がなくなった。僧侶に精神的主権者たるの要求を撤回せしめた。
 彼らは理知を信じ、自然教を信ずるのみである。自然教とは条理に暗からざる人が明らかに認め、平易に他に説明し得べき真理である。ロックは彼らの先覚者であり、ニュートンは彼らの能力を生きながら示す豪傑である。能力卓越の国柄として、天佑を受けたるは英国である。英国は自由の国土なりとは、かの仏国人が大いに羨んだところである。当時の外国人は木靴を履いて蛙を食っていたくらいのものに思っていた。
 政治においての寛容、意見を述べることの自由、衒学の嫌悪・・・・アングロサクソンの世界の覇者たる地位はここから始まった。
 p193
 十七世紀の僧侶の神学の一派にあっては、その三段論法はとうてい俗人の嘴を容れるあたわざるものであった。彼らは古代の教祖の著書をことごとく暗誦しかねまじき哲学者であった。反して、ロックの議論は俗人でも頭脳さえあれば理解が出来る。英国の散文はこの時代に発達したと称せられている。
 p208
 己に足りて外に待つなし、という言葉が十八世紀英国文人の境遇である。フランスもドイツも怖くない。国家は安泰である。才学は自分が一番偉い。社会と風俗は自分が一番よく心得ている。ちょうど下町辺の大旦那のようなものである。自分ひとりが通人で、物がよく分って、酸いも甘いもかみ分けていて、どこへ出てもちやほやされて、万事にそつがなくて、粋で上品で、一口に言えばきわめて低級な程度における全知全能の神である。
 こういう人は万事をもう卒業しているのだから、決して研究心や向上心を起こすものではない。自分と同程度、もしくはそれ以上の人間が存在しうるとは決して認めない。それで生活問題に追われるじゃなし、人生の大問題を考えようじゃなし、生死の難関を切り抜けようじゃなし、肉の束縛を苦しがるんじゃなし、人間の奥まで切り込んで自分を暴露しようというんじゃなし、まあ呑気である。
 十八世紀英国文人の作品を読んで何が残るかといえば、デパートの売り場を見て回った後のようである。きれいな心持がする。気が利いている。寄木細工の香箱みたいである。どれもこれも土足で踏み壊しても構わないものばかりである。
 ・・・漱石の怒りは烈しい(p210−215)。ニーチェもカントもボストンの港に輸入された途端に品質が劣化するとして、アラン・ブルームが『アメリカンマインドの終焉』で恥しがった二十世紀後半のアメリカは、このイギリスの拡大コピーそのものである。アメリカは、国王とその宮廷制度、牢固たる階級社会以外の全部をイギリスから直輸入した。何よりもまず「君主を倒した秩序ある自由の模範という概念」。そして、これに本国とはくらべものにならない大きな国土が加わった分、アメリカの自惚れはほぼ「全知全能」の域にまで駆け上がってしまった。