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池澤夏樹 『世界文学を読みほどく』 第十四回 総括

 p392・402-3

 私たちの世界観には、大きく分けて二つの種類があります。一つは、世界は樹木状の分類項目に従う、つまりディレクトリのある、例えば動物・植物の分類表のような形をしているという考え方。いくつかの大きなカテゴリーがあって、その下にまたいくつものカテゴリーがあって、その下にさらに小さなカテゴリーがあって、という、この世界は統制の取れたロジカルな構造をしているという考え方です。

 それからもう一つは、この世界は単にモノがひたすら羅列的に並んでいるだけであるという考え方。その中で、並んでいる項目に順序をつけるとすれば、アルファベット順とかあいうえお順とか、そういう機械的な順序しかつかないような、秩序なき世界であるという考え方です。

 今の僕(池澤)は、世界の把握の仕方はどうも、特に二十世紀以降、そのディレクトリ型から羅列型に変わっていっているのではないかという印象を持っています。

 そもそも人間には、さまざまな事象を関連づけ、分類をし、繋ぎたいという欲求、全体をまとめて整理して、ディレクトリに収めたいという自然的な欲求があります。自然を整理して、知的に認識したいという欲望がある、と言っていいかもしれません。この欲望は文明の発生以来根強いもので、二十一世紀の今も大半の人はこの欲望に捉えられています。政治家も、政治をこころざす人々も例外ではありません。

 たとえば、かつて「革命」という幻想がありました。革命というのは、ある思想的な原理を実行に移して、社会全体を根本的に変えることです。それによって今の社会が持っている問題点はすべて解消され、新しい社会が始まる。・・・そういう「革命」が信じられた時代がかつてはあった。革命でなくても宗教でも、立身出世でもなんでもいいのです。自分の人生を嵌め込める物語がかつてはあったということです。

 でもいまさら「革命」とはもう言えない。ソ連の革命はあのように失敗に終わりましたし、中国も変わってしまった。

 そういうものがみんな失われて、言ってみればわれわれは、壊れてしまった大きな物語の破片の間をうろうろしている、それが今なのではないか。とりあえずその日その日で何を消費するかを考え、暫定的に日を送っている。それだけではないのか。

 大きな物語がまだあったとき、「革命」にあたってマルクス主義が機能したように見えましたが、二十一世紀のいま社会の成り立ちのディレクトリを根本から変えようとして一つの原理を打ち立てようとすれば、それはどうやったってみんな一種のパロディになってしまう。あるいはひどく邪悪なものが持ち込まれて、オウム真理教のようになってしまう。

 ですからわれわれは全部を新しくする、全部の問題を解決して理想の社会を造るということは考えずに、秩序なく羅列された問題を端の方から一つずつ自分なりに小さく集めて、繕って、まとめて、それで何とかしていくしかない。僕が世界をディレクトリ的に捉えるのに疑問を感じるのは、多くの人たちが大きな物語の幻想をまだ捨てられずにいる印象が強いからなのです。