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ユヴァル・ノア・ハラリ 『サピエンス全史』(河出書房新社)6/7

 下巻 第14章 無知の発見と近代科学の成立

 P59-61 

 近代科学は、人間がいろいろなことに無知であることを公に認める。
 この無類の知的伝統が、「世界理解」に至るための基本的な足がかりになった。

 近代の科学革命は、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。人類は自らにとってもっとも重要な疑問の数々の答えを知らないという発見が、科学革命の発端だった。

 イスラム教やキリスト教、仏教、儒教といった知識の伝統は、この世界について知らなければならない重要な事柄はすでに全部知られていると主張した。偉大な神々や万能の絶対神はすべてを網羅する知恵を持っており、それを聖典や口承のかたちで私たちに解き明かしてくれているとしていた。聖書やコーランヴェーダから森羅万象に関する決定的に重要な秘密が抜け落ちており、それが俗界の人間によって今後発見されるかもしれないということは考えられなかった。

 ヨークシャーの農民が、クモはどうやって巣を張るのかを知りたいと思った場合、もちろん聖職者に尋ねても無駄だった。この疑問に対する答えは、キリスト教のどの聖典にも見つからないからだ。だからといって、キリスト教に欠陥があるわけではなかった。それは、クモがどうやって巣を張るかを理解することは、世界のあり方を知る上で重要ではないということだ。

 キリスト教は人々がクモを研究することを禁じてはいない。だが、クモの研究者は、中世のヨーロッパにそういう人が仮にいたとしたらだが、自分が社会の中でじつに瑣末な役割を果たしているにすぎず、キリスト教の永遠の真理にとって自分の発見が無関係であることを素直に受け入れた。

 ただし実際には、ものごとはそう単純ではなかった。どの時代にも、たとえどれほど敬虔で保守的な時代にも、自分たちの社会だけが知らない重要な事柄が、別の社会には存在すると主張する人はいた。だが、そのような人々は、たいてい無視されたり迫害されたりした。あるいは、預言者ムハンマドのように、自分たちこそ知るべきことをすべて知っており、新たな伝統を創設するものであると主張し始めた。そしてムハンマドの信奉者は彼のことを「最後の預言者」と呼びはじめ、それ以降、ムハンマドに与えられた以上の啓示は彼らの社会にとって不要になった。

 これにたいして近代科学は、<もっとも重要な疑問>に関する私たち自身の集団的無知を公に認める点で、無類の知的伝統だ。
 ダーウィンは自分が最後の生物学者で、生命謎をすべて解決したなどとは決して主張しなかった。広範な科学研究を何世紀も重ねてきたにもかかわらず、生物学者は脳がどのようにして意識を生み出すかを依然として説明できないことを認めている。物理学は何が原因でビッグバンが起こったかや、量子力学一般相対性理論の折り合いをどうつけるかがわからないことを認めている。