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國分功一郎 「暇と退屈の倫理学」1/7(朝日出版社)

 著者は達意の文章を書く37歳の若い哲学者である。ちょうど私たちの子供世代だが、こんなスピノザ学者がいるとはまったく知らなかった。この本には著者が大学院生だったころの「暇と退屈の苦しみ」が本音で書かれてある。あとがきに書かれているように「斜に構えて世間をバカにし、この悩みをやり過ごそうとしたこともあった。不満のはけ口を求めて、周囲にやたらとくってかかったこともあった」らしい。そのような、ある種の人たちを深く浸襲する悩みとどう向き合っていけばよいかを、このような読解しやすい「哲学」書にできる俊才に出会ったのは初めてだ。
 「好きなこと」とは何か
 p19
 最近他界したガルブレイスによれば、経済は消費者の需要によって動いているし動くべきであるとする「消費者主権」などは、経済学者の思い込みに過ぎない。いまとなってはガルブレイスの主張は誰の目にも当然のことである。消費者の中で欲望が自由に決定されるなどとは、もうだれも信じていない。供給者側が「お客様の欲しいのはこれなんですよ」と語りかけることで、消費者は自分の欲望に気づく。欲望はだから生産に依存する。生産は、生産によって満たされるべき欲望を自ら作り出す。
 p23
 資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からなくなっている。何が楽しいのか分からなくなっている。自分の本当に好きなことが何なのか分からない。
 そこに資本主義がつけ込む。土曜日のテレビは翌日の日曜日に時間と金を使ってもらう娯楽の宣伝番組を放送する。文化産業が、自分たちが作った既成の楽しみ、産業に都合のいい楽しみを人々に提供する。
 かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の余暇が搾取されている。高度情報化社会という言葉すらが死語になりつつあるいま、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。
 なぜ暇は搾取されるのだろうか。それは人が退屈を嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇の中で退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身をゆだね、安心を得る。
 では、どうすればいいのだろうか。なぜ人は暇の中で退屈してしまうのだろうか。そもそも退屈とは何なのだろうか?
 p25
 イギリスに社会主義思想を紹介したモリスは、一八七九年の講演『民衆の芸術』でこんなことを言っている。「私たちが待ち望む革命が実際にやってきて、そして民衆によって歓迎されたとしよう。しかしその革命成就のあとに私たちは何をするのだろう。これまで人類は痛ましい労働に耐えてきた。ならばそれが変わろうとするとき、日々の労働以外の何に向かうのか。」
 p28
 アレンカ・ジュパンチッチという、旧ユーゴに生まれ、現在四五歳の哲学者が大変恐ろしいことを述べている。「近代はこれまで信じられてきたさまざまな価値観を相対化してきた。その根底には科学の驚くべき発展がある。」
 「その果てにどうなったか?近代はこれまで信じられてきた価値に代わって、“生命ほど尊いものはない”という原理しか提出できなかった。この原理は、しかし、“あまりにも正しい”がゆえにだれも反論できない、そのような原理にすぎない。それは人を奮い立たせない。人を突き動かさない。」
 「人は自分を奮い立たせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する。なのに、世間で通用している原理に、そんな力はない。だから、突き動かされている人間を見るとうらやましく思えるときがある。たとえば、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち。人々は彼らを、恐ろしくもうらやましいと思うようになっている。」
 「自分はいてもいなくてもいいものとしか思えない。何かに打ち込みたい。命を賭けてまでも達成したいと思える重大な使命に身を投じたい。なのに、そんな使命はどこにも見当たらない。食べることに必死の状況を脱した人々の多くが、“生きている”という感覚の欠如に苦しみ、“打ち込む”こと、“没頭する”ことを渇望している。」
 p40
 こうした人たちの一部には、緊張、緊急、極限・・・などの形容詞がつく極度の負荷がかかった状態を生き抜くこと、そこにこそ「生」があるのだと体感する人の群れがある。いうまでもなくナチズムに心酔した人々である。彼らの心にあるのは、まさしくニーチェが診断したあの欲望、苦しみたいという欲望である。