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國分功一郎 「暇と退屈の倫理学」2/7(朝日出版社)

 暇と退屈の原理論(パスカルと退屈)
 p33
 パスカルは相当な皮肉屋である。彼には世間をバカにしているところがある。そのパスカルは退屈をこう考えている。 「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。」
 現代風に言えば、なぜ私たちは、やるべき仕事を探し、仕事に従事しようとするのだろうということである。仕事というのは普通、できることならやらずにすませたい、そのようなものではないだろうか。
 ところがパスカルに言わせれば、実はそうではないのだ。やるべき仕事がないと、人は何もない状態に放っておかれることになる。そして何もすることがない状態に人間は耐えられない。だから仕事を探すのである。
 p36
 (西洋では)今日でも、ウサギ狩りは普通に考えれば、仕事より楽しいはずである。ところが、当時も人気があったこの狩りに興じる人たちについても、パスカルはこんな意地悪なことを考える。「狩りとは、金で買ったり、他人からもらったりしたのでは何の意味もないウサギを追いかけて、一日中駆けずり回ることである。人は獲物が欲しいのではない。退屈から逃れたいから、気晴らしをしたいから、ひいては、みじめな人間の運命から目をそらせたいから、狩りをするのである。だというのに、人間ときたら、獲物を手に入れることに本当の幸福があると思い込んでいる。」
 p37
 パスカルの述べることを定式化すれば、ウサギ狩りに興じる人は、「欲望の対象」と「欲望の原因」を取り違えているということだ。彼らは、ウサギはウサギ狩りにおける「欲望の対象」ではあるけれども、ウサギ狩りをしたいという「欲望の原因」ではないことに気づいていない。だから何羽のウサギを狩ろうが、翌日や翌々日の退屈は止まらない。
 p38-41
 「欲望の対象」と「欲望の原因」を取り違えている人にとっては、退屈を紛らしてくれる気晴らしは、何でもいいのかもしれない。唯一、条件があるとすれば、それは熱中できるものでなければならない、ということだけである。パスカルははっきり言っている。 「人間は、熱中し、目指すものを手に入れれば自分は幸福になれると思い込んで、自分をだます必要がある。」
 どこまでも底意地の悪いパスカルはさらに厳しいことを言う。 「賭け事や狩りは気晴らしにすぎない。そして、“君は、自分が求めているものを手に入れたとしても幸福にはならないよ”などと訳知り顔で他人に指摘して回るのも、同じく気晴らしなのだ。しかもその人は、「欲望の対象」と「欲望の原因」の取り違えのことを知った上で、自分はそこには陥っていないと思い込んでいるのだから、もっとも愚かな人種である。」